Story 1 -Part.12-
僕がミサトとの幻想的な世界から舞い戻って目を開けると、正面には呆然とした姿で、でも焦点のはっきりとした目線でこちらを見つめるチサトがいた。
「何……してるの?」
チサトの声にミサトも敏感に反応し、僕らは不自然にお互いの体を解き放ち、そのままチサトと向かい合う形となった。
「何がどうなっているの? どうして姉さんがここにいるの? どうしてユウトと……」
でも、チサトの言葉は後に続かなかった。彼女の目からは一筋の涙が流れ出し、音もなく頬を伝った。僕はチサトに対して何を言ったらいいのかわからずに、ただその涙の行方を眺めていた。いや、僕が見ていたのは涙自体ではなく、その中に宿っているであろうチサトの哀しみだった。僕に裏切られた悲痛な叫びを、彼女はただその中に精一杯表現しているように思えた。そして、それは少なからず僕自身の心を深く抉り取った。
「チサト、あなたに隠していて悪かったわ。でも、私たちはもう終わったのよ。だから気にしないで。ユウトとは……ホリベくんとはもう何でもないの」
ミサトの懸命な訴えも、もはやチサトの耳には届いていないようだった。チサトは意を決したようにこちらに背を向けると、そのまま振り返りもせずに走り去っていった。でも、次第に小さくなっていくチサトの後ろ姿を見ながらも、僕はその後を追いかけようとはしなかった。
「ユウト、追いかけなくていいの? このままじゃ、あなたたち本当に終わっちゃうわよ」
「あるいは、これでよかったのかもしれない」
「えっ?」
「多分、これでよかったんだ。俺は本当のところ、チサトを愛してはいなかったんだ。確かにチサトといると心が落ち着くし、言いたいことも言い合えるし、お互いに分かり合える関係だけど……それだけなんだ。それしかないんだ」
「それしかないって、それで十分なんじゃないの?」
「大学の頃は、俺もそう思っていた。でも何かが足りなかったんだ、決定的に。一度別れた時には、それが何だったのかよくわからなかったんだけど、最近になってやっとわかったんだ。ミサトがそれを教えてくれたんだ」
「私が?」
「ああ。だから、チサトと再会して付き合うようになってからも、いつかまたこういう時が来るんじゃないかって思っていたんだ。遅かれ早かれ」
「決定的な何かが足りないから?」
「もちろん、今度こそうまくいくんじゃないかと思ったから付き合ったんだけれど、やっぱり駄目だった。昔と変わらなかった」
「もしよかったら、教えてくれない? その決定的な何かっていうのを」
「宿命的な想いっていうのかな。うまく言えないんだけれど、男と女って、分かり合ったり信じ合ったりする前から、どうしようもなく決まっていることってあるだろ? あるいは、それはインスピレーションみたいなものなのかも知れないけれど、相手の顔立ちを見たり性格を理解する前から、既に決まっているものがあるような気がするんだ。たとえ性格や気が合わなかったとしてもね。根本的な部分で結びついているものが既にあって、相手の性格や状況は後からついてくるものなんじゃないかって」
「それは、赤い糸で結ばれた運命みたいなもの?」
「綺麗に言えばね」
「でも、それって逆に後から感じるものなんじゃないかしら。振り返ってみて、これは運命だったんだって思うんじゃないの?」
「そうかもしれない。でも、少なくとも今の俺にはそうは思えないんだ。まず最初に宿命的な想いがあって、後からいろいろなものがついてくるような気がするんだ」
「……まあいいわ。それで、その宿命的なものを私には感じたけれど、チサトには感じなかったのね」
僕は、言葉で答える代わりに自分の首をゆっくりと上下させた。天空に輝く太陽は既に西に傾いていたが、その勢いは衰えずになおも二人の間に眩い光を放ち続けていた。
「正直に言って、ユウトにそんな風に想われてとても嬉しいわ。でも、チサトとはこれからも付き合っていってほしいの。あの子本当にいい子だし、ユウトもきっと幸せになれるわ。難しいことはよくわからないけれど、人それぞれに愛の形があるように、ユウトの心の中にもいろいろな愛の形があっていいと思うの。だから、チサトを幸せにしてあげて。いずれにしても、私たちはもう終わったんだから」
ミサトはそう言うと僕に背を向け、それからゆっくりとした足取りで家族の待つ場所へと帰っていった。ミサトに言われるまでもなく、僕は自分の心の中に様々な愛の形を発見していたし、二人の姉妹に対する想いがそれぞれに異なることもわかっていた。問題なのは、その優先順位なのだ。僕は宿命的にミサトのことが好きだったし、現実的にチサトのことが好きだった。あるいは非日常と日常と言ったほうがいいかもしれないが、いずれにしても僕にとっては、現実よりも宿命のほうが、日常よりも非日常のほうが大切だったのだ。不条理だろうが何だろうが、それが僕自身の正直な気持ちだった。だから僕は、あえてチサトを追いかけなかったのだ。たとえそのことで、自分が不幸の渕に追いやられてしまうとしても。
でも結局のところ、僕は二度とミサトに会うことができなかった。いや正確に言えば、同じ場所に勤めているのだから、廊下で偶然にすれ違うこともあったが、それは既に会うという概念を外れるものだった。チサトにも何度か電話をかけたが、携帯からも自宅からもその声を聞くことは叶わなかった。チサトのアパートに出向くことも考えたが、僕自身がそれを押しとどめた。チサトは僕にとってかけがえのない大切な女だったが、唯一の女ではなかったからだ。そう、僕はここに至って二人の女を、姉妹を同時に失うことになってしまったのだ。でも不思議なことにそこに後悔はなかった。ただ心の中に虚しさが広がり、殺伐とした寂しさが募っただけだった。僕は、毎晩のようにデニス・デ・ヤングの「デザート・ムーン」を聞きながら、何年ぶりかに味わうそんな寂寥感に懸命に耐え、その状況に慣れようとしたがそれは無駄な試みだった。何故なら僕自身が、求めるべきものが他にあることを本能的に悟っていたからだ。そしてそれがはっきりとわかったのは、テーマパークでの一日から一週間が過ぎた、物憂げな雨の降る日曜日だった。