Story 1 -Part.10-
「私ね、父親の浮気相手の子なの。ほら、よくあるでしょ。会社の上司と部下との不倫って。うちの場合も見事にそういうやつ。もう絵に描いたみたいに二時間ドラマなの。二十年前、私の母親が同じ会社で働いていて、そこで付き合っているうちにできたのが私。後から思ったんだけど、サトミって名前も安易よね。だって上からミサト、チサトってきてサトミよ。ミサトをひっくり返しただけなんだから、父親も本当にいい加減よね。まあそれはいいんだけど、私が五歳の時に母親が死んじゃって、それで父親に引き取られたの。家には、もう一人の母親と二人の姉さんがいて、みんな私によくしてくれたわ。特に、姉さんたちは本当に可愛がってくれた。元々父親が強い家だったって理由もあるんだろうけど。でもね、やっぱり私には居心地が悪かったの。どう見たって結局私だけは他人だしね。だから、中学や高校の時も結構悪いことしたし、とにかく家を出たかったから、大学に入ると同時に一人暮らしを始めたの」
「でも、サトミには絵があったんだろ?」
「どんな人間にも、一つくらいは取り柄があるのよね。小さい時から絵だけは好きだったし、学校の先生からも褒められたわ。まあ、好きっていうより習慣だったのかな、絵を描くのが」
「どうして、あんな中近東まで行って描いてるんだ?」
「どうしてなんだろう。自分でもよくわからないんだけど、自分の周りの人物や風景ってどうしても描く気にならないの。もっと非日常的で、でも十分にリアリティーのあるものが描きたいの。そう言う意味じゃ、イスラム世界っていいのよね」
「なるほどな」
「ユウトは、小説を書いてるんでしょ? チサト姉さんが言ってたけど」
「大学の時はな。作家になりたかったんだ。自分に才能があるかどうかわからなかったけど、とにかく自分の物語をいろいろな人に読んでもらいたかったんだ。物語を通じて、自分の生き方や考え方を認めてほしかったっていうのもあるけど」
「それで、今も書いてるの?」
「いや」
「それって、もう自分を認めてもらえたからやめたの?」
サトミの問いかけに、僕はうまく返事ができなかった。僕が書かなくなった理由はそんな綺麗事ではなく、単に仕事や日常生活の波にのまれて何となくやめただけだったからだ。才能がないと自分で勝手に決めつけてそれを正当化していただけなのだ。でも、僕には恥ずかしくて言えなかった。決して恵まれているとは言えない運命を辿りながらも、自分を失うことなく直線的に生きているサトミの前では、僕の生き方自体が陳腐なものに見えたからだ。
「まあ、いろいろとあってな」
「でも、また書き始めるのよね? 新しいのを書いたら読ませてね」
そう言って、サトミはグラスの底に残った最後のギムレットを愛しそうに飲んだ。僕はその横顔を視野に入れながらも、自分の中途半端な生き方を恥じ、いつから作家になる夢が消えてしまったのか、その瞬間を必死に思い出そうとした。でも、そんなことをしても無駄だった。結局のところ僕は自分の人生を見失い、その結果自分自身をも失っていた。僕はそのことをサトミから教わり、改めて怠惰な日常生活から抜け出そうと決心した。と同時に、見た目や言葉遣いとは異なるサトミの意外な内面を垣間見て、僕は自分の気持ちのかすかな揺れを感じていた。それが、具体的に何を意味するのかはまだわからなかったが、少なくともサトミの存在が僕の人生を別の方向に導こうとしていることだけは明らかだった。
一週間後の土曜日、僕はチサトと二人で、ドライブをしながら横浜の郊外にあるテーマパークに向かった。既に九月になってはいたが、その日の残暑はことのほか厳しく、僕はエアコンを最大にして車の中の空間だけは避暑地にしようと必死だった。
「いい天気になったわね」
「でも、外は暑そうだな」
「雨が降るよりいいじゃない」
チサトはそう言うと、窓の外を流れる景色を眩しそうに眺めた。彼女は薄いベージュのカットソーに濃いベージュのチェックのスカート姿で、色合いでは既にひと足先の秋の装いだった。
「俺さ、もう一度小説書いてみようと思ってるんだ」
「えっ?」
「この間、友達に言われて思ったんだ。このまま終わらせちゃいけないって。才能がないなんて言い訳してやめちゃいけないって」
「本当に……また書くのね」
「ああ」
「よかった。小説を書いてた頃のユウト、とても活き活きしてたし、私そんなユウトが好きだったんだもの」
「書いたら、読んでくれるか?」
「もちろんよ。その代わり、私が一番始めの読者よ」
チサトは白い歯を見せながら、僕に向かって優しく微笑んだ。そして、僕はもう一度物語を書いてみることで、改めて自分自身を再構築しようと心の中で堅く誓っていた。