ex.2. 猫被
第26話の原型。入れる要素を練り直したせいでお蔵入りになった話です。現在の26話にもいくらか面影が残っていると思います。全体的に猫成分過多。
「本来起こりえないことが偶然の連続で起きたというのであれば、それは『奇跡』だろう? だから君がここにいるのはやはり奇跡というべきだ」
「でもそんなに偶然は繋がりますか? だったらそれは偶然が連続するように何処かで決定されている。だから『運命』なんです」
柚希が召喚直後という絶妙のタイミングで保護されたことについて、そのことが『御都合主義的』だとこぼしていたらその言葉について説明しろとのメレディスの指示が飛んできた。
分からない単語についての説明、しかし何をどう説明したらいいのだろう。偶然についての話なのだから確率論なのか。けれど確率論なんて高校の数学程度の知識しかない。それも文系の大学に進んだものだから、早い段階で理系の教科はすでに忘却の彼方にある。
だから思い出しながらの説明になるのだが。
サイコロを振る、ああ『サイコロ』はこの世界にあるのか。箱から赤球を取り出す、「君の世界にはそういう風習が?」 もう途中で余計なことを訊かないで、と。説明する範囲が膨大になってきて、やはりここは異世界なのだと実感する。
だいたい数字の形も違うし、数式の表記法も違う。もしそちら方面の知識を本格的に説明させられたら、盛大にボロが出ることだろう。鶴亀算ぐらいは説明できるけれど、そのときは「鶴と亀とはどんな動物か。足が見分けられないほど似てるのか」と、全然違う方向で質問を受ける羽目になるのだろうと予想している。
つくづく、異なる文明の間に横たわる隔たりを埋めるのは難しい。
ごく普通に使っている単語についてその概念が二つの世界の両方になければ、いくら魔法で言葉が翻訳されるといっても上手く伝わりきらないことは今まで何回も起きていた。魔法の無い世界に住む柚希には魔法の専門用語は中途半端にしか伝わらないし、逆に科学のないこの世界ではその方面の知識は理解しづらいようである。
いま相手にしているメレディスもどうやら傾向からは逃れられないらしく、『進化』という言葉は知らなかった。この世界にも初歩的な遺伝論「子が親の性質を引き継ぐ傾向がある」程度の知識はあるけれど、それがDNAのような物質を介して伝達されることを解き明かす段階までは至っていないのだという。
そういうわけで柚希は直面する論争を、数学方面から攻め上げる方法を早々に放棄する。そもそも理系方面は彼女の専門ではないのだから。
けれど奇跡や運命だとかについて、今度は別方面から攻略しなければいけない。
「運命というか『縁』かもしれません。縁があると、どんなことがあっても引き寄せられるというし」
「『縁』について」
予想はしていたがやはりその言葉に食いつく。正直なところ面倒になってきた。適当に説明して終わらせてしまえと頭の中で語彙を探るけれど、どうも適切なものが思い浮かばない。記憶は曖昧だが『縁』は元々仏教用語じゃなかったか、宗教関係に広げるとそれこそとてつもない大解説を展開しなくてはならなくなる。
「赤い糸……」
ようやくひねり出した単語は、よりにもよってそんなものであった。もちろんメレディスはこと問いたげに柚希の方を見つめている。
「ええと『縁』は人と人の間に関係があるという意味ですね。それで特に縁の強い男女、将来結ばれることになっている二人はあらかじめ繋がっているのが分かると。小指同士に赤い糸が結ばれていて、その糸の先に未来の相手がいるのだと……」
「結ばれるべき男女を赤い糸で結ぶ? 婚約した時の風習か何かなのだろうか」
メレディスの視線が動く。目が向いた先は柚希の小指だ。
なぜこちらの小指を見る? 元の世界でも赤い糸はただの伝説で、特定の相手がいるかどうかを見極めるためにチェックするべき場所は左手の薬指だ。
「そういう言い伝えがあるんです。赤い糸の夢を何年も気にしていたら、実際の結婚相手が夢で見た人間だったとか、そんな話なんです。本当に指に糸を結ぶわけじゃありません」
結婚指輪じゃあるまいし。
「ただの伝説ということか。では、何かの予兆であらかじめ相手がわかるというわけではないと?」
「分かるわけないでしょう? でもたまにそういう相手に出会った瞬間『この人』ってビビビッて来るって言い張る人もいますけど」
やたらと食いついてくる相手に勘弁して欲しいと思いながらも、納得しなければ彼は話を終わらせてくれないだろうと、雑談レベルの中身の無い一般論で答えを返す。奇跡だろうと運命だろうと、人間の結びつきなんて一瞬のフィーリングで、理屈抜きの感情的な反応だ。しっかりとした論理的な言葉で説明できるようなものではない。
けれどいいのか? 言うに事欠いてオノマトペだ。
「その『ビビビッ』とは?」
何だっけ。昔の芸能人の婚約会見か何かが語源だと記憶はしているが、誰だったか。説明するには芸能人だとか、記者会見だとか、そういうところから始めなくては。オノマトペといっても「ビビビッ」が擬音語なのか擬態語なのか。心に衝撃を受ける様なのだろうが、打撃的な衝撃かあるいは電流的なものなのか。待て待て、流行語といっても何時の時代の物なんだ、これ?
「それぐらいにしておかないと。ユウキも疲れてしまうよ」
終わりのない追求をたしなめる声は入口の方から。セクハラ対策で閉めていない扉の所にノヴァが立っている。
「もう昼休みなんだから議論は切り上げないとね。言葉の話が白熱して夢中になるのは分かるけれど、終了の時間は守ってくれないかな?」
注意はしているけれど、口調は叱責ではない。例の猫じみた笑みを浮かべて部屋へと入り込み、勝手に席へ。そしてメレディスへと指示を出す。
「お茶を用意してくれるかな? 君の分も入れて三人分だ。せっかくだから休憩を兼ねて話をしよう」
そう言って部下を給湯室へと送り出す。
忙しいはずなのに、支局内の皆はお茶汲みや軽食の準備ぐらいは自分でしてしまう。そのための人間を雇っても不思議ではないのにと疑問を感じていると、ノヴァが説明をしてくれた。
「雑用を専門としている人を使うべきところだと思うけれどね。でもあまり部外者を入れたくないんだ。だからお茶ぐらいは自分で入れられないと。もちろん僕も自分で何とかするよ」
下働きで掃除や洗濯、食事に携わる使用人は支局内で何人か職を得ているらしい。しかし普段それらの人々を見かけないのは、建物内で彼らの入れる範囲が決まっているからだという。その境界線あたりに給湯室や衣類置き場を設置し、できる限り直接顔を合わせることを避けているのだそうだ。柚希自身もこちらへ来てから早い段階で洗濯物を出す場所と、着替えを受け取る場所を指示された覚えがあるが、あれが内と外との境界線ということだ。
「君も自分でできるように、そのうちお茶の入れ方を教えてもらうといい。食生活には違いがあるだろうから、そっちで面白い話も聞けそうだしね」
好奇心を露わにする点は上司も部下も変わらない。それにしても食生活への興味だとは、味噌作りを始める異世界小説でありがちな展開への第一歩のような気配である。だが発酵の素人に味噌作りなど出来るはずもなく、それ以前にこちらの世界に大豆という穀物が存在しているかどうかも不明だ。
それにしても『ビビビッ』の後は食生活の話題とは。気持ちの切り替えに忙しく、何を話していいのか。首を傾げつつ相手の顔を見ていると、ノヴァがにっこりと笑いかける。
「君は真面目で良い子だよね」
言葉の意図を推し量る。
「ああ、変なことに聞こえたかな? 文字通りの意味だよ。彼の質問はしつこいと思うんだけど、それに対してきちんと説明しようとしているって事を言いたいんだ」
やはり周囲にはしつこいと思われているのだ。うんざりしているのが自分だけでないことに少しだけ安心する。
そうは言っても、そのうんざりにとことん付き合うのは彼女が単に真面目だからという理由ではない。
「ただ、猫をかぶっているだけです。何処で話を打ち切ればいいのか分からなくて。でも、それが好ましい性格だというのなら──」
「ちょっと待って。君のところでは猫をかぶるの?」
言葉を遮られたと思ったら謎の質問。しばし考えて相手の言わんとすることを理解する。
「『猫をかぶる』というのは慣用句です。知らない人相手には自分を良く見せようと大人しい態度をすることを言います。借りてきた猫って大人しくしているものですから」
「猫を借りるって、貸し借りするものなの?」
「えっと、それも ことわざ で……」
こうやって言葉尻を捕らえられ質疑応答をさせられるのは部下も上司も同じではないか。でも ことわざ や慣用句こそは属する文化に根ざす言葉であるため、どうしても説明なしに理解するのは難しいのかもしれない。
休憩と言っていたはずなのに質問攻め。軽く気疲れを覚えていると、その様子に気づいたノヴァが「悪かった」と小声で謝った。
「どうしても気になったものだからね。そうか、ことわざ。君のところの猫って、そういうものなんだね? つまり大人しい時と凶暴な時の落差が激しい生き物だということ」
何となく納得したのか独り言をもらしている。納得したならばそれでいい、間違ってもここで「シュレディンガーの猫」などと言って猫関係の話題を広げてはいけない。そんな言葉を漏らしたら、毒ガスの発生する箱に猫を入れ、一時間後に取り出して生死の確率を計算する風習について説明を要求されてしまうだろう。
よそ事を考えつつも、そういえばと小さなことが引っかかる。少しだけ迷いながらも、思い切って訊いてみた。
「この世界にも猫はいるんですか? 何の不思議もなく単語が通じているようなんですが」
理解のできない言葉、概念の存在しない単語は魔法では翻訳しきれない。そのような単語はたいてい意味不明の音節の羅列になってしまうが、猫はどうやら「猫」として通用しているらしい。ならばこの世界にも猫の概念に合致する動物がいると考えられる。
「そう言われれば、猫は翻訳されてるね。じゃあ似たような動物はどちらの世界にもいるということだ」
「でも完全に同じ動物とは限らないのかも。身体の大きさや色合いが違うのかもしれません」
同じかもとは思ったが、完全に同じ猫だと断定するにはまだ早い。柚希が周囲の人間の顔を見るときに上を見上げねばならぬように、同じ人類だってかなりの身長差がある。同じ名で呼ばれる動物だからといって、多少の差異はあるはずだ。
いつかこちらの猫を見せてもらう機会があるとして、その時に登場するのがトラやライオンのようなサイズの『大きな猫』では戸惑ってしまうに違いない。
「こちらの猫はどのくらいの大きさなんでしょう? つかまえて持ち運べるぐらいですか」
「抱きかかえても重くないこれぐらいの大きさの四脚の動物だよ」
これぐらい、と言ったところで広げた手の幅は、柚希の考える猫のサイズとさほど変わらない。
「耳の形は三角で、目は大きくて暗いところで光る?」
思いつく特徴を挙げていくと、ノヴァはその通りというように何度か頷いた。
「そうだよ。体が柔らかくて、ニャーと鳴く生き物だ。毛色は縞模様だったり、黒かったり」
まさしく猫である。そして鳴声はニャーなのか。さらに黒い毛色となれば、まさに目前の人物のイメージそのもの。
「しかも黒猫」
思わず口にする。ノヴァは一瞬不思議そうな顔になる。しかしすぐに合点がいった様子。
「なるほど、僕のことか。よく言われるよ」
「あっ、失礼でしたか?」
誰かを動物に喩えるのは不躾なことである。黒猫呼ばわりがバレてしまったことに恐縮するが、ノヴァは大きな目をゆっくり瞬きさせるばかりだ。そうした表情も猫じみた印象を強くする。
「髪の毛も黒いしね、最近白髪が増えてきたけれど」
足りないものはピンと伸びたヒゲぐらいか。にんまりといっそう猫のような笑みを浮かべるノヴァの顔を見るに、猫呼ばわりについて怒るどころか、むしろ面白がっているとしか思えない印象である。