これが我が家のメイドさん。
「おはようございます、ご主人様♪」
声。ここ数ヶ月ですっかり聞き慣れてしまった、優しい声。
その声で、僕の意識はゆるやかに覚醒していく。
「う……?」
目を、開ける。
開けた視界の中には、およそ一般家庭にはいないであろう属性のひとがいた。
「……お気付きになりましたか?」
――メイドさんだ。
フリルが揺れるヘッドドレスに飾られた金髪。
黒と白というコントラストの、テンプレートなメイド服。
メイド服にはいくつかの場所にリボンが付けられており、伝統を守りながらも単調な風体ではない。
そして最も目を引くのは、細く白い首に嵌められた真紅の『首輪』。
最期だけは違うけど、それ以外の要素は誰がどう見てもメイドさんの格好だ。
金髪で、巨乳で、メイドさん。
うちのような何処にでもある家庭には、まず置けないようなオブジェクトだ。
「プリマリア、さん?」
彼女の名前を、呼ぶ。
彼女は笑みを深くして、
「はい。『いつもにこにこ貴方のお側に』、が合言葉。貴方の忠実なメイド、プリマリアです♪」
言葉どおり、彼女は笑顔だ。朝から良いものを見たと、そんな役得を感じるほどに、暖かくて、優しい笑み。
その笑顔のまま、彼女の言葉は続いて、
「プリマリア時計がご主人様の本日の起床時間、朝8時13分35秒をお伝えします。わぉん♪」
僕の起床時間をカウントして、犬のような吠えで締めた。
そうかぁ、プリマリアさんにはそんな機能まであるのかぁ……って――
「――はちじじうさんふん!?」
飛び起きた、と言うよりは、飛び上がった。
太陽の力をマスターしなくても人間というのは飛べるようだ――じゃなくて。
とんでもない時間だ。遅刻どころか、今から準備していくとどれだけ急いでも一限目半ばというところか。
「正確には35秒ですよ。あ、その前に10分と2秒、半覚醒状態で微睡んでいらっしゃいました。ですので、お声をかけさせて頂いたのですが」
「遅いよ!? ってか、僕、たしか目覚ましを――」
――かけていた、はず。はずだ。
枕元の携帯を開いて確認して――
「――あれ?」
鳴った形跡が、ない。
もしも目覚ましが鳴り、僕がそれでも起きないのであれば、ディスプレイに目覚ましが鳴った時間が表示されるはずなのに。
次に、その上。置時計を見る。
こちらも、目覚ましのスイッチはオフになっていた。寝る前に確かに入れたはずなのに――
「――寝呆けて消して二度寝? いやそんなこと今まで一度もなかったよね……?」
置時計のスイッチは確かに入れたし、携帯の目覚ましも入れた。
当然、スイッチを押さないと置時計はオフにはならないし、適切な処置をしない限り、携帯が待受画面を映すことは無いはずだ。
独り暮らしを始めて早一年。
寝呆けたまま目覚ましを切って二度寝などと、高度なスキルを習得した覚えはない。
「ご主人様」
「あ、なに、プリマリアさん。というかプリマリアさんも起こしてくれれば……」
「起こしたほうが、良かったのですか?」
「そりゃもちろん……って、真逆、プリマリアさん?」
「はい、ご主人様?」
ほんのりと嫌な予感がした。
そうだ。もしこの状況が僕の仕業でないとするならば、可能性があるのはひとりしかいないのだ。
「目覚ましを止めたの、プリマリアさんの仕業?」
「はい♪」
にーっこり♪
なぁんだそっか。謎はすべて解けおいいいいいいい!? 『にーっこり♪』じゃないよ!?
「な、なんで!?」
「この子たちが、ご主人様のお眠りを妨げていたものですから……私の方でお相手を」
「しなくていいよ!?」
それ、寧ろ妨げるためにセットしたものだから!
「でもアラームを鳴らし続けてしまうと、ご主人様が起きてしまいますから」
「起きて良いんだよ! って、ああこうしてる間に時間が過ぎていく! プリマリアさん、着替えるから出ていって!」
「お着替え……では、お手伝いを」
「いらないから!」
即答した。
プリマリアさんは既に僕のパジャマのボタンに手を掛けていた。
危険な状態で、一刻の猶予もなかった。
「そんな……ご主人様のお世話をするのが私の使命なんですよ?」
そんなこと言われても聞けません。
相手は若い――高く見積もっても二十歳くらいの――女の人なのだ。男としては、いろいろ無理だ。
「プリマリアさん……あー。『命令』するから。下降りてて?」
「……かしこまりましたぁ。きゅぅん」
心底残念そうに、しかしプリマリアさんは僕の『命令』を承諾する。肩を落としつつも、部屋から出ていってくれた。
忠実なメイドさんである彼女にとって、『命令』、というのは最優先事項なのだ。
静かになった部屋で、僕はパジャマのボタンを外しながらひとりごちる。
「……あんまりこういうこと、命令したくないんだけどね?」
「お取り消しになられますか!?」
「と、取り消さない取り消さない!」
急にドアを開けられた。すごく嬉しそうだった。キラキラしてた。
危なかった……の、だろう。
――――――――――
食卓へと降りていくと、既に朝ご飯の準備が整っていた。
メインの塩鮭と、日本人が愛して止まない白いご飯から湯気が昇っている。
これだけでも美味しそうなのに、小皿には沢庵と、焼き海苔の姿が。
さらに味噌汁の良い匂いまで鼻を擽るのだから、もう堪らない。
「どうせ遅刻だし……ゆっくりしていこうかなぁ……」
我ながら、なんと意志が弱いのだろう。
しかしこんな完璧な朝ご飯にエンカウントしてしまえば誰だってそうなる……なる、はずだ。
少なくともこの献立に感じ入るものがなければ、そいつは日本人ではないと思う。
「もう少しでお味噌汁が暖まりますので、席に着いてお待ちください♪」
「あ、うん」
台所を見ると、プリマリアさんが小さなお鍋をおたまで掻き混ぜているところだ。
キッチンの位置的に、こちらには背を向けた格好になる。
彼女は味噌汁が入っている鍋に火を入れつつ、足でリズムを踏み、腰を揺らしている。
スカートやリボンが踊る。その動きに合わせるように紡がれるのは歌声で、
「〜♪」
「……」
本日もプリマリアさんは歌っていた。
歌は人間の産んだ文化の極みであり、異星人にもカルチャーショックされる、彼女の数少ない趣味だけど――毎度ながら彼女の選曲は解らない。なんだろうこの歌。
兵とか砲音とか通信網とか、いやに不穏な単語が並べられているけれど……軍歌、だろうか?
味噌汁をお椀に入れ、こちらにやってくるプリマリアさんを見る。
白く、雲のように柔らかそうな布に飾られたさらさらの金髪ストレート。
宝石のような紅い瞳は少しつり目気味だけど、きつい印象はない。
そして、普段あれだけの仕事をこなしながらシミや傷、荒れといったものが見当たらない白い肌――どれも、天然物だ。
染めたり嵌めたり、後から取って付けたようなものであれば、この美しさは決して出ることはないだろう。いや、ある種、造られたのではないかと疑う余地さえあるほど、彼女は綺麗だった。
理想をそのまま切り取ってしまったかのような、その姿――首元の首輪が、『背徳』という言葉を投げ付けてくる。
……でも、歌う曲は変だ。すごく変だ。
そしてそのギャップが、何故か現実を実感する材料のような気もする。ふしぎ。
「ご主人様……どうかなさいましたか?」
味噌汁の入ったお椀をテーブルに置いたプリマリアさんは、こちらの視線に気付いたようで、自分のメイド服のスカートやヘッドドレスに触れ、リボンの結びなども確認する。
「私、どこかに不備があったでしょうか……わふぅ……?」
「ああ、いや、ううん。いつも通りだけど。なんていうか、今日の歌が気になって」
「お気になさらずに。スターリングラードの冬は厳しく、景色は寂しいのですから」
意味が解らなかった。
プリマリアさんはわふぅ、と独特のため息を吐き、
「次はイタリア抜きでやりたいですね……」
「参加してきたみたいに言わないようにね」
「あ、ご主人様。こちらを」
突っ込みを入れながら味噌汁に手を伸ばした僕を、プリマリアさんは制した。
差し出されたのは小皿。それに置かれているのは刻んだ葱であり、
「先に入れてしまうと風味が飛んでしまうので、此方にご用意しておきました」
「嗚呼、うん。ありがとう」
相変わらず気配り上手だ。
僕には勿体ないくらい、完璧なメイドさんだ。
「〜♪」
……ちょっと、不思議なひとだけど。
―――――――――
結局、ゆっくりと朝ご飯をいただき、食後の熱いお茶まで堪能してしまった。
……これ、着くのは二時限が終わる頃になるかなぁ。
そんなことを思いながら玄関で靴ひもを結んでいると、後ろから声がかかった。
「ご主人様」
この声はもちろん、我が家のメイドさんのプリマリアさんのもの。靴ひもを結んだ僕は振り返り、
「プリマリアさん、行ってくるね」
「はい、ご主人様♪ こちら、おカバンになります」
「嗚呼、うん」
渡されてから、持ってなかったことに気付いた。
その事実が、彼女が持ってきてくれるということが当たり前になっているということだと気付く。
……良くない傾向なのかなぁ。
「ええっと、何時もごめんね?」
つい、謝ってしまった。
彼女に負担を掛けることを当たり前としてしまったことに対して、負い目を感じてしまったからだ。
僕の謝罪に対して、プリマリアさんは一瞬だけ目を丸くした。
けれど、そのあと直ぐに微笑みになり、
「謝らないで下さい。私の幸せは貴方に尽くすこと。それを謝られてしまったら……私の幸せは、後ろめたいことになってしまいます」
「……あー。うん。今のは、失言だったね」
そう、そんなことを言うだろうなと思っていた。
最初こそ彼女の存在に、考え方に、戸惑ってしまったけれど、今は、プリマリアさんというひとをほんの少しは理解したつもりだ。
彼女が此処に来た経緯を説明すると長くなってしまうので割愛するけれど、彼女にとっての幸せ、存在理由とはそれなのだ。
それに謝罪してしまうのは、失礼に値すると思いつつ――やっぱり、独り暮らしが長くあった所為だろうか。
『誰かに何もかもしてもらう』ということに、戸惑ってしまうのだ。
「ふふ」
そんな僕に、彼女は笑みを向けてくる。
「えっと……なにか、おかしかった?」
「いえ、私のご主人様は有難い方だと再認識しただけです」
「そう……?」
失言したのに、何故か褒められてしまった。
なにかむず痒いものを感じ、それを誤魔化すために僕は顔を背けた。
そのまま立ち上がり、玄関へと一歩を踏む。
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ、ご主人様。お車や自転車、通りすがりの仮面を着けたバイク乗りなどにはお気を付けて。何かあればお呼び頂ければ、時間の波を捕まえて限界無限を天元突破で駆け付けますので♪」
「……後半、どんどん胡乱な単語が飛び交ってるのが気になるけど、うん。とにかく行ってくるから」
扉を開け、外へ出る。
最期に扉が閉まるとき、プリマリアさんの笑顔が見えた。
その笑顔に暖かなものを感じ、僕はゆっくりと、学舎に向かって歩を進めるのだった。
必要に迫られるであろう、遅刻の言い訳を考えながら。
「……鮭をそのまま食べるかお茶漬けにするか迷ってたら、遅刻したっていうのはダメかなぁ」
ダメだよなぁ。