混じり合う色音
「共感覚ってやつらしいんだけど、分かる?」
大学の知人からまた頼みがあると相談を受けたが、私は既にその事を少し後悔していた。
「なんかね、彼女がそれらしくて」
目の前に座る村田という男は見た目も色も喋り方も軽薄で生理的にまるで受け付けなかった。一刻も早く帰りたい気持ちに駆られたが、知人からは事前にそこも含めて分かった上で報酬をもらっているので文句は言えなかった。
「それの何が問題なんですか?」
私の声は無意識に冷たく尖る。知人からは氷の女王と揶揄されるぐらい普段から無表情無感情なので、通常時でも相手に与える印象は大抵ろくでもないのだが今日は違った。どうしても自分の声に少しばかり感情が混ざってしまう。
「氷見さんってほんと名前通り氷って感じだね」
村田はかっかっかっと喉の奥だけを鳴らして笑った。これが彼の笑い方のようだが尚更下品で不愉快に感じた。
「いや、なんかキモいんだよね」
聡美が、と言って村田は注文したアイスコーヒーをぐびっと飲んだ。聡美というのがこの男の彼女らしいが、こんな男の一体何が良いのだろうかと顔も知らない女の感性を疑った。
「キモい、というのは?」
毎度一文を喋り終えた後に奇妙な間があくので、いちいちこちらから話を促さないといけない。どこまでも自分とは絶望的に合わない男だった。この時点で報酬を上げてもらおうかと真剣に思い始めた。
「あ、聞いてくれる?」
お前が話を聞いてくれと言うからこの場に至ったのだろうと呆れながら、ようやく村田の話を聞くに至った。
*
大学の同じサークルに所属する聡美と付き合う事になった時、『後から言うの嫌だから、先に言っとくね』と自分が共感覚の持ち主だという事を告げられた。
共感覚というのは一つの感覚に別の感覚が混ざる現象だ。文字や数字に色や音、人格や性格を感じたりするといったものが例として挙げられる。
聡美の場合は”音色共感覚”という、音が色として見える感覚の持ち主だった。例えば、ピアノの高音が鋭い白、低音は重く濃い青といったように感じられるといったものだ。
村田は当初共感覚の事を知らずそんなものがあるのかと思ったぐらいだったが、次に彼女が言った言葉が興味深かった。
「幽霊とかオーラってあるじゃん。あれって共感覚の一種だと思うんだ」
だから私ちょっとそういうの分かるの、と彼女は少し自慢げに笑った。
「ちなみに村田君は全体的に赤って感じ。戦隊モノのリーダーカラーだね」
これを聞いて村田は、こいつちょっと痛いかもと付き合った事を少し後悔したという。
ただ実際付き合い始めてから彼女が変な事を言ったりすることはなく、普通の付き合いが三か月程過ぎた。順調な交際だったが、ある日村田の一人暮らしの部屋に訪れた彼女が妙な事を口にした。
「この部屋なんかいるっぽい」
どういう事かと訪ねると、部屋の至る所に青色の痕跡のようなものが見えるというのだ。何故痕跡という言い方をしたかというと、今ここに青色の何かが”いる”というわけではなく、過去にこの部屋にいたであろうそれが辿った行動が見えているような感覚に近いという。
「あと、こっちの方から音がする」
言いながら彼女はベッドの方を指差した。彼女曰く、拍手のような音が聞こえるというのだが村田の耳にはもちろんそんな音は聞こえなかった。
「過去の住人なのかな。何人かいるっぽい。なんだろこれ」
部屋の中には青色の他に紫色がかったものも見え、彼女にしか聞こえなかった拍手の音も
この紫と同じ色をしているそうだ。
村田は知らないよと言う事しか出来なかった。
*
「っていう話で。それから何度か部屋に来たんだけどやっぱり同じみたいで。で、ちょっともうなんかこの部屋嫌って言われて、部屋来なくなったんだよね」
「ちなみに事故物件だったりとかは?」
「ないない。不動産に聞いてみたらって言われたから確認してみたけど、そういう事は一切ないって。嘘つかれてるかもとも思ってそういうサイトでも調べたけど、ほんとっぽいね」
念のため村田の住所を件のサイトで調べてみたが、彼の言う通り今回の件に関連するような情報は何も出てこなかった。相談事の類で自分もお世話になっているサイトなので信頼性は高い。
「別に自分が暮らす分には何もないけど、そんなん言われたらなんか不安になるじゃん? なんかいるのよって」
なるほど。それで私にお鉢が回ってきたという事か。あまり気は進まないが手っ取り早く済ませてしまいたい。
「一度お部屋を拝見させてもらえますか?」
いいよと村田は快諾したが、彼の口元に一瞬厭らしい笑みが浮かんだのを私は見逃さなかった。
ある程度察しはついているので正直部屋には行きたくなかったが、報酬をもらっている身なのでちゃんと仕事は果たさねばならない。村田にも呆れたものだが、知人の趣味の悪さにも別の意味でほとほと呆れたものだ。
*
「どうぞ」
村田の部屋は学生アパートらしい簡素な部屋だった。
扉を開けてすぐに狭い廊下。左手にはユニットバスに続く扉と右手にはキッチン。廊下先はリビングへと続いており、左側にベッド、右側には小さなソファ、机、テレビが置かれている。思ったよりは綺麗な部屋だったが、私が来るからとりあえず片しただけなのかもしれない。もっと散らかった部屋を想像していただけに意外だった。
「で、どう?」
村田は怖がるより興味津々といった様子で笑顔すら浮かべていた。腹が立ったのでさっさと終わらせようと思った。
「彼女以外の女を連れ込むのは良くないんじゃないですかね」
「いやいや、今日は氷見さんに見てもらうって目的なんだから部屋に入れなきゃ始まらないでしょ」
村田はかっかっかっと笑ってまたあの不快な音を出した。
ーーそうじゃねえよ馬鹿が。
「今日の話ではありません。聡美さんと付き合うようになってから、彼女以外の女性を部屋に入れてますよね?」
そこまで言うとようやく気付いたようで、村田の下卑た笑顔がさっと引いた。
「聡美さんは別に幽霊が見えているわけじゃないと思います。とは言っても特殊な力は少しばかりあるようですが」
「どういう事?」
「共感覚というのは今ここで感知したものに対して働くものです。例えば」
そこでパンと私は両掌を打った。
「今鳴ったこの音に色味を感じる。過去や未来に鳴った、鳴るであろう音を感知するものではありません」
「でもあいつは痕跡って」
「そこが彼女が少し特殊たる所以です。彼女には過去の色や音も感知する事が出来た。自身で霊感と評すのもあながち間違いではないかもしれませんね」
「でも幽霊じゃないって--」
「だから言ってんだよ。あんたは生きた女をここに連れ込んでるだろって」
怒りを含めた冷徹な物言いにさすがの村田も少々怯んだ。
「聡美さんが見たのはあんたが他の女を部屋に呼んでよろしくやってた痕跡ですよ」
あまりにもくだらない真実で嫌気と吐き気を催す。人は見た目じゃないなんて言ったりもするが、この男は見た目通りだったというわけだ。
「簡単な色の調合問題ですよ。聡美さんが言ってた話を繋げれば正直この部屋に来るまでもなく誰にでも解ける問題です」
”ちなみに村田君は全体的に赤って感じ。戦隊モノのリーダーカラーだね”
村田の赤。部屋の中の青と紫。ベッドの方から聞こえた拍手のような音。
「あんたが赤で浮気女が青。ベッドの方から聞こえた音はあんたらがまぐわってる時の音」
パンパンと村田の前で拍手してやる。ねこだましを食らったように村田は顔を逸らした。
「赤と青を混ぜてできるのは紫。ほんと見た目通り軽薄な男ね、あんた」
逸らした顔に私はずいっと顔を近付ける。
「あたしともやりたい? 誰がするかよ。身の程を知れ」
胸糞が悪い。この部屋の空気が身体の中に取り込まれる事がそろそろ堪えられなくなってきた。仕事は終わりだ。
「その浮気女の方が本当は好みなんでしょ。今のあんた、もう赤じゃなくてほとんど紫だもの」
そう吐き捨て私は部屋を後にした。
*
「最高じゃん。やっぱあの男ろくでもなかったね」
そう言って知人であり依頼人でもある深山あかねは私に茶封筒を差し出した。中身は三万円。軽薄男の真実を暴いた奇怪なエピソードの料金としては上出来か。
「最初から全部分かってたんじゃないの?」
「そんなわけないじゃん。ある程度想像はついてたけどね」
へらへらと笑う深山に向かってこれみよがしに溜息をついてみせるが、そんな程度の素振りでは彼女の心が微塵も動かない事はもちろん分かっている。
昨今怪談の語り手となる若い世代が急速に増加した。怪談師なんて言葉が広まったのもつい最近の事だ。この御令嬢もそんな怪談ブームの波に見事に呑まれたうちの一人だ。怪談、怪異にドはまりした彼女は自らもそういった類の蒐集を始めた。
だがこの令嬢が他と違うのは一切自分の足で稼ぐ事をせず、金にものを言わせて周りの人間を使い蒐集を行う所だ。そんな彼女の活動の中で、どこからバレたのか私の持つ力のせいで目を付けられた。以来、彼女の趣味と小銭稼ぎという利害一致のみによって関係性が成立している。
「最初はさ、ただ金が欲しいだけなのかなって思ったんだけどね」
「まああの感じだったらそう思うのが当然よね」
彼女にとって金などいくら撒いてもキリがない程溢れているので、例え無駄話になったとしても痛くも痒くもないだろう。羨ましい限りだ。
「で、正直なとこ聞きたいんだけど。あなた見えたの?」
途端深山の眼差しが真剣なものに変わる。今までどこにでもいそうな女学生が瞬間一般人とは違う覇気を纏わせた。今の彼女の前で適当な言葉や嘘は本当の意味で命取りになる。空気が一瞬にして張り詰める。このあたりは一代で財を成した血筋が嘘ではないのだと感じさせられる。
「部屋では何も。ただ」
「ただ?」
私に共感覚の力はない。だから聡美が見た色や音については正直答え合わせは出来ない。
「村田の中に紫色の女がいた」
村田を見た瞬間に感じた不快な色味。それは共感覚で得られるものではなく、それこそ聡美が自身を評した霊感という類のものだった。聡美の言っていたものは何一つ見えなかったが、その代わり私にしか見えないものがあった。
村田の左肩に、紫色の女の生首が見えた。
最初女がまるで村田から生えているように見えたが、どうやらそうではなく村田の中にずぶずぶと浸るように入り込んでいるのだと分かった。
私には生き霊が見える力があった。この紫の女は生きている。そして色味から余程の色欲だと感じられた。ひょっとしたら聡美の言うように、村田はもともと赤のオーラを纏っていたのかもしれない。しかし私には紫色に染まっているようにしか見えなかった。
「もしかして、それってこの女?」
深山が私にスマホを見せる。画面には二人の男女が夜の街を歩いている様が正面から写されていた。おそらく深山が別の誰かに頼んだ盗撮だろう。左が村田、そして右には村田に腕を絡ませる女がいた。もちろん聡美ではない。外見は清楚そのものな美人だが、その内を色味まで知っている自分からすれば酷く汚らわしく映った。私は深山に向かって首を縦に振った。
「最高。マジでこいつら屑」
深山は令嬢らしからぬゲラゲラと下卑た笑い声を上げた。
「ありがと。気分が良いからプラスしたげる」
そう言って深山が分厚い財布の中から更に三万円を取り出した。
「これからもよろしくね。氷の女王」
深山は颯爽と立ち去って行った。
ーー何が氷の女王だ。
その評価は心が死んで凍てついた者にこそ相応しい。だから私は違う。
村田達の色欲に嫌悪や怒りを感じた。そして今目の前に置かれた追加報酬に色めきだっている。表情にこそ出さなかったが、深山との関係性が既に氷の女王という称号から自分が甚だかけ離れた存在を証明している。深山はおそらくそこまで見抜いている。恐ろしい女だ。
ーーあなたこそ一番面白い怪談になりそうだけどね。
深山の背に無数に群がる生き霊を見て思わず頬が緩んだ。
ーーしかし、あれはどう解釈すればいい。
少しばかり疑問が残った。
聡美が見た青色。あれは誰の色だったのか。先程の浮気女の色を聡美が見れば分かるのかもしれないが、自分には分からない。あの場では適当に青と赤の調合問題をでっち上げ、結果的にはうまく収まる形になったが、本当にそうなのだろうか。
ーーまあいいか。
私は報酬を鞄にしまい、久しぶりに豪勢な夜を楽しむ事にした。
*
「なあ、やっぱ何かいるみたいなんだ」
半年が過ぎた頃、私は再度村田の部屋を訪れることになった。二度と来たくないと思ったが、報酬は弾むからと深山に頼まれて仕方なくの事だった。
「どう? いる?」
いた。しかしその姿を見て驚いた。
聡美だった。彼女は青白い顔で部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。
「聡美さんがいる」
そう告げると、村田の顔から血の気が引いた。彼は小さく”やっぱりか”と呟いた。
「死んだんだよ。自殺」
村田の話はクソみたいなものだった。
あれから村田は結局浮気女を選んだ。その事が原因で、聡美さんはショックにより自宅の風呂場で手首を切って自殺をした。
「お前が死ねよ」
それだけ言い残して私は部屋を飛び出した。
実際に会う事はなかったが、聡美の力はある意味私よりも凄まじいものだったかもしれない。共感覚の更に向こう。彼女は痕跡という過去だけではなく、未来の色まで感知していたのだ。皮肉な事に、この部屋で彷徨う死んだ自分自身の色を。
ーーもしも色だけではなく、ちゃんと全てが見えていれば。
“その浮気女の方が本当は好みなんでしょ。今のあんた、もう赤じゃなくてほとんど紫だもの”
自分の不用意な一言が、あの屑男の背中と聡美さんの自殺のスイッチを押すきっかけになったかもしれない。そう思うと涙が止まらなかった。
深山から『どうだった?』とメッセージが届いていたがしばらく返信出来なかった。
心が少し落ち着いた頃に『聡美さんがいた』と告げると、
『両方見えるようになったね笑』
とだけ返信が来た。
ーーやめよう。
それ以来、深山の依頼を引き受ける事はなくなった。