目覚め
夫となる方と突発事件で顔を合わせるという、大事件から何日かして文が来た。自分宛てというなら殿からであろうと、心ときめかせて開けた文はまごうかたなき女手で、着物の好みを尋ねる内容だった。こんな実用文書をもらったのは生まれて初めてだった。こんな内容には卯木さえ対応したことがないという。
だいたい着物というのは反物を見て趣味の良し悪しを言うことはあっても、目の前に何もない状態から何が好みかなんて考えたことはない。卯木が言うにはわたしにはいつも出入りの商人から最上級の反物が届けられて、その中から着物担当の八条が選んで仕立て、当たり前のようにそれを着ていたのだという。八条が
「とりあえず下着の小袖の反物をいただいてはどないであらしゃりましょう。それならば物が悪ければ私どもの分を仕立てればよろしかと。」
というので、それがよかろうということになった。この奇妙な文の差出人はと見ると、千代とある。下仕えの頭の「そで」という者に尋ねると、光時さまの奥様であるという。
「武家の奥向きは、大殿様の奥方様の采配でございます。奥方様のお指図で光時さまの嫁御の千代さまがお使いの文をくださったのではありますまいか。」
と言った。そうか。もうご正室があるんだ。予想はしていたけど、やっぱり落ち込む。都の流派よりは崩しの少ない、男手に近い書き手だ。武家の妻女はきっとこんなものなんだろう。用件だけの味気ない文。みやびとか才知とかなくてもいい世界。なんだかがっくりきてしまった。ここはわたしが今まで大切だと信じて守り、積み重ねてきたものが何の重みも持たない世界なのだ。
「なにせ、大奥様とお千代さまのほかには、文なんぞ書けるおなごはおりやしませんから。」
とそでは得意顔である。文が書けないって? どういうこと?
「文が書けないって、文字の読み書きができないってこと?」
「はい。」
そではにこにこしている。もちろんそでも読み書きなどできない、と言う。自分ができないことを言われていて、なんで笑っていられるの。恥ずかしくはないの。
「下々の者はそうしたものでございます、姫様。読み書きをしなくても生活に困りませぬ。」
と、卯木は真面目に答えた。
わけがわからなかった。もう返事などどう書いてよいものかわからない。
「これは姫様がお心にかけることではございませぬ。卯木が片付けておきますゆえ。」
と言われて、放り出すことにした。頭の中にとげがひっかかっているような嫌な気分のまま、何日も過ごした。
わけのわからない文が来て、半月余りたった。
立秋が来たが、暑さは相変わらずである。いつもは食べることもおっくうになる夏なのだが、ここでは沢の水で冷やした瓜がおいしい。
「ここへ来てからというものたくさんお召し上がりにおなりあそばして、うれしゅうございます。」
と御膳係の茜が言う。本人はここのおまわり(おかず)は都のとは味が違うと日々こぼしていたが、最近は慣れてきたらしい。そういえばわたしも茜も少し顔が丸くなってきたと、八条も言っていた。
風が入るよう、蔀戸は簾のままである。下々の者が通る道は竹薮の向こうなのだが、このところ人通りが多い。足音やおしゃべりの声が私のいる奥まで聞こえてくることがある。そでによると、近くにある定信寺という寺でお施餓鬼のあかりを灯すお祭りがあるそうな。明日の晩だという。
「定信寺そのものは焼けてしまって、何も残っとりはしません。力持ちの坊さん方がご本尊の脇にあった観音様だけを持ち出して、それだけが残ったんです。その観音様のために、ここいらの者が小さいお堂を作ったのがたった一つ、定信寺の名残です。その前で明かりを灯し、祖先を供養するのでございます。」
最近増えた人通りは観音堂へ花を手向けたり、夜道を歩けない子供や年寄りがまだ明るいうちにお参りに来たりするものであるらしい。丑吉という下男にも、そでが命じて仕事の合間に観音堂への道の草を刈るなどさせているらしい。
「少しのことでも、ここに姫様がおいでになることを、人々に気にしてもらわねばなりません。放っておけば草ぼうぼうになって、姫様のお嫌いなやかましい小童どもが駆け回るようになってしまいますから。それにこぎれいにしておかねば、明日は亀井の大殿も、ご家中の方々もお出でになりますから。」
はっとした。
明日の晩、笛を吹いたら光時さまに聞いていただけるのではないかしら。卯木に相談したら、それはよいということになった。そでも姫様が聞かせてくださるのなら、皆も喜びましょう、と言ってくれた。何を演奏しようかしら。あまり短すぎない曲、でも祖先の供養だから,おめでたい曲はいけないなどとあれこれ考えて選曲した。
選んだ三曲をさっそく練習してみる。ここへ来てからしばらく、気が抜けたようにぼんやりと毎日をすごしていたので、指も音も心もとない。これではだめだとくじけそうになった。明日なのだ。間に合うはずもない。情けなさにまた涙がこぼれた。
「姫様、どうあそばされました。何か気に障る音がありましたか。」
と茜が驚いて寄ってくる。
「だめだわ、茜。全然練習していなかったんだもの。ちっともいい音が出ない。」
「そんなことあらしまへん。いつもと変わらずええ音でございました。ここは家が小さいうえに風が抜けすぎるので、御所とは響き方が違うのでございましょう。ささ、お続けあそばしまし。」
励まされては吹き、吹いては落ち込んで、また励まされ、久しぶりに波のように心が動いた。少し疲れた。笛を吹いて疲れを感じたことなんて、今までなかったのに。わたしだけでなく、この家の皆の心まで踊っているようだ。日が暮れてもみなにこにこしていた。
翌日は少し早起きして、久方ぶりに草履をはいて外へ出る。竹薮越しに風が吹いてきて心地よかった。うれしくなって下の道まで降りてみる。もう人がいることに驚いて少し戻って隠れた。通って行ったのは女と子供の二人連れだった。気おくれしてどぎまぎしているわたしの方に、だまって丁寧にお辞儀をしてから通り過ぎて行った。気がついていたのにしゃべらないのは、わたしに気を遣ってくれているから?
「なんで気づいているのに声をかけていかないのかしら。」
と思わずつぶやいたら、付いてきたそでが答えた。
「目上のお方には口をきかぬ方がよいと、在の者は思っております。黙っておれば、聞きとがめられることもございませんゆえ。」
「ああいう者たちは、ふだんおしゃべりはしないの。」
「それは身内、仲間内では話すこともいたします。けれど日々の仕事は身内だけで済みますゆえ、外の者と話すことは存外少ないものでございます。まして女子供は見知らぬ者を恐れて、口をきかないことも多うございます。子供は食べ物なぞに釣られて、かどわかされていくこともありますし。」
誰でも、わたしに出会った者はあいさつをして話しかけてくれるものだと思っていたので、わたしはびっくりした。見知らぬ者、目上の者には声をかけないでおく。こんなわたしにとって都合のいいことがあるなんて。
御所にいれば危ないことはほとんどなかったから、子供さえ身を守るために知らない人と話さないなんて、初めて知った。わたしは驚くとともに恥ずかしくなった。わたしは御所の外のことを、赤子のように何も知らない。
「ねえ、そで。かどわかされていった子供は、どうなるの。」
「さあ。人買いに売られて、皆がいやがるきつい仕事をさせられるのだと言われておりますねえ。」
「それは戦のようなこわいこと?」
「いえいえ、戦はお侍衆のなさることで、子供には…。ほっほ、姫様には下々の苦しい生活なぞ、おわかりになりませんでしょうねえ。」
生活が苦しい、ということ自体、意味がよくわからない。もっといろいろ聞きたかったけど、聞けば聞くほど自分が何も知らないことに、打ちのめされてしまう気がして、館に戻った。
朝餉まで笛のおさらいをする。一日練習したせいか、今日は少しは指も動きがよい。聞いていた茜と八条が、都を思い出しますと言って少し涙ぐんだので、そこでやめてしまった。わたしは都や御所のことなんか、思い出したくもない。今の、ここでの静かな暮らしのほうが、どれほどいいか。