初音
この章は前章と対になるお話。奏子姫の視点で書かれています。発達障害のある人の考え方や感覚がわかるといいのですけど。
ああ、またやってしまった。
わが身のことながら、いったい何度こうやって涙に暮れたことだろう。自分でもいやになる気性である。
もう大人なのだから、殿御がすべて鬼のような者ばかりではないことは承知している。いや、身分などというもののあるおかげで、逆に皆が皆わたしのことを大切に扱ってくれているのもわかっている。ありがたいことだと思わねば、と言われてすごしてきた。それでもなお、殿御の声を聞くと体が勝手に反応してしまうのだ。大きな音、低い声、鳴りやまないで続く音が、私は怖い。一度「怖い」と感じるともう駄目なのだ。
いや、殿御の声だけではない。誰にも言ったことはないけれど、女人の声だって、いくらひそめていたって、わたしには聞こえる。皆がわたしを憐れんでいるだけではなく、困り者だと言っていること。鬼に食われた古の姫君の生まれ変わりだの、誰ぞの呪詛のせいだの、お母様やら乳母やらが悪意を持ってやらせているだの、およそ根も葉もない中傷の数々。そういう怖い話をして、そのあと平気で私に良い顔をして見せる、そういう人々もわたしは嫌だった。怖くてたまらなかった。
誰もいないところで、一人きりで暮らすことができるのならばどんなに気楽だろうと、何度となく考えた。でも乳母の卯木はそんなことはできない、姫様が生きていくには食べることも着ることも人の手を借りずにはできないのですからと言った。そうなのだ。ここへ来る途中、初めて見た下々の者たちは、汚い破れた着物を着て、ろくに料理もされていない食べ物をむさぼるように食べていた。あのような暮らしをさせられればわたしはすぐ死んでしまうだろう。
あの醜女の代名詞のような末摘花の姫君ですら、素直なご気性があったから源氏の君の六条の院に迎えていただけたのに、わたしはなんでこんな気性に生まれついてしまったのかしら、と幾度となく考えたものだ。明日、目が覚めたら、何を聞いても平気になれたらどんなにいいかしら。いやいっそ、明日は目が覚めないで、お母様のいらっしゃるお浄土へ生まれ変われたなら、どんなに幸せかしら、とよく考えていた。
鶯の初音が梅の木に花をもたらすように、笛の音がわたしに心を傾けることができるものに出会わせてくれ、またこの地にやってくることができた。
生まれてこの方、御所から出たことさえ数えるほどしかなかったわたしが、都から五十里も離れたこの地へ、生きてたどり着けたのは御仏のご加護だったと思う。しかも、ようやく落ち着けたこの地はわたしの願った極楽浄土に近いものだった。
殿御の声が聞こえない。夏のたびに悩んでいた蝉の声が間近で聞こえない。それなのに卯木を始め大切な人たちが変わらずそばにいてくれる。この平穏をくださった亀井光時さまという方には、どんなに感謝してもしきれないと思っていた。それなのに、である。初めてお目にかかった光時さまに、突然のこととはいえ、「あれ」を見せてしまった。
「殿さまはなんと仰せでございました、卯木さま。」
侍女の八条が聞いている。
「驚いてはおいででしたが、かまわぬと仰せくださりました。」
そう言われても本当なのか、わたしにはわからない。卯木など身近にいる何人かの侍女以外の人の言葉は、風のようにうつろだ。信じていいのかわからないのだ。
小さな子どもの時はお母様と卯木の言うことだけを信じて聞いていた。それ以外の人は勝手な都合でわたしを動かそうとするだけで、わたしの都合なんて聞いてくれなかったから。毎日毎日のやることを全部決めて、それだけをきちんとする。それが幼いころのわたしにとって何よりも大切なことだった。何かの都合で卯木がよそへ出かけたり、初めて会う侍女が近くに来たり、お母様にお客様があって、一緒にいられなかったりすると、大声をあげて泣いたものだ。怖かったのだ。無事に終わった「昨日」と今日がちょっとでも違うことになれば、私にとっては恐怖の大事件だった。
少し大きくなったら、空いた時間は物語を読むようになった。物語が好きだった。物語は何回読んでも変わらないから。昨日話しかけてくれた言葉と今日あいさつした言葉が違う、そんな人々は嫌いだった。わたしの侍女たちは朝の挨拶から始まって、こんなときどう話しかけるかという言葉が全部決まっている。それ以外の言い方で話しかけられるのは、昔ほどではないが、今でもいやだ。
何回読んでも毎回同じである物語はわたしを安心させ、落ち着かせた。子どものころは物語の中の和歌をおぼえてみんなを驚かせていた。物語の中で話していることをまねすると、賢くおなり遊ばして、とほめられた。そうやって「世渡り」をおぼえてきた。でも私の知っている物語の中の世界は現実とは違う、ということがだんだんわかってきた。お話の世界にはなかった侍も戦も、この世にはたくさんあるのだ。初めて兄上様から合戦絵巻というものを見せられた時の衝撃は今も忘れられない。この世は物語の世界のように、美しくみやびなことだけでは成り立たないのだとわかった。
しかし何よりわたしを打ちのめしたのは、まずわたしにはもう物語のような幸せな結婚なんてありえないことだった。歳が二十歳を越えた女というのはみなどこかへ嫁いで、物心ついた子供を持っていて当たり前なのだそうだ。縁組の適齢期なんて十年も前に終わっているのだと知ったときは驚いた。お父様やお母様に無理やりやらされるのが嫌で嫌で仕方なかったあの「裳着の式」というものがそうだったと知ったときは青ざめる思いだった。もっと私が大きくなってからやってくれたのなら、まだ理由に納得し我慢もしただろうが、あの頃のわたしは、自分の心を保つために嫌なものを拒むだけで精いっぱいだったのだ。
平安の貴族の時代ならまだしも、世の政は侍の時代。女人の役割は家と家をつなぐことと後継ぎとなる男児を生み育てること。お飾りのような帝の、それも気性に難ありの姫なんて、よほどの変わり者だって顧みもしない。身分の高い家の娘ならば、黙っていても貴公子が文を下さって…というのは昔々のお話で、今の世の中は自分の家と格の合う家同士で、親が決めた相手の家に女が嫁ぐものなのだ。
そういうことがわかったのはお師匠の菊女君と話をしたからだ。菊女君は年下だけど、わたしなんかと違って初めから自分で今の世の中を憶えて生きてきた方だった。もちろんそのほうが当たり前であって、物語を繰り返し読んで、理解して、やっと御所の中のあれこれと同じであることに気がついてきた私とは違う。菊女君はご自分の知っていることを、ご自分なりの言葉で私に語ってくださった。この方は、笛だけではなく人生においても師匠だった。菊女君と話すことで、やっとわたしは自分がなぜ人に疎まれてきたのか、両親を嘆かせてきたのかが少しわかった。といってもわかったからと言って、自分を他の人のように変えることができるかと言えば、それは全くできなかったのだけれど。
それだけにこちらの若殿のところへ縁組が決まったと聞いたときはとても驚いた。同時に困った。絵巻物などを見ると、結婚だの思いを遂げるだのという場面では必ず殿御が姫に寄り添って描かれている。こんなふうに殿御のそばに近寄るなんてことは、わたしには無理だ。離れたところから殿御に話しかけられるのはもちろん、女人であっても知らない人と話をするのが怖くて死ぬほどの思いがするのに。
それでもわたしがここへ来たのは、それがお父様や兄上様のお望みであること、縁づくことが女人の幸せであると言われたからだ。この結婚は形だけのもので、御所にいるときと同じように過ごしていればいい、お相手の殿御は身分で言えばはるかに下の者、姫様を敬って大切にしてくれましょう、と兄上のお使いの内侍に言われた時は「謹んでお受けいたします」と教えてもらった返事だけをした。その一言の返事で、あれよあれよという間に、今日まできたのだ。