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この章は、奏子姫の生い立ちが、乳母の卯木の視点で描かれています。

 姫君のご誕生は、お上をはじめ都中に喜びをもたらしました。お上にはすでに三人の男宮がおられたからです。しかしそれもつかの間、耳敏い姫様はちょっとした人声ですぐお目を覚まされて、よくお休みになることができず、泣いて泣いて泣き疲れてやっとお眠りになる、そんな赤様でございました。

 仕方なくご生母のお方様もやんごとない身分の方でありながら、赤様のために人の通いの少ない御所の端へお移りになり、それがお上やお方様の父君様のお嘆きのもとになりました。お二方が、お方様への気遣いでお部屋にお訪ねになるほど、姫君はおむずかりになり、お方様の気苦労は増え、最後には大きめの塗籠ぬりごめの間を造られて、姫様を養うことになったのでございます。朝も昼も、冬も夏も、暗い塗籠の間が姫様のただ一つの居場所でございました。物音や人声がなければ、姫様はたいそうおかわいらしく、ほかのお子様と変わらず賢いお方でございました。

 少し大きくなられてからほかのお子様方や身分のある方のお子様で、年の近いお方を遊び相手にとお呼びすれば、ご一緒に遊ぶこともできるようになり、私どももお方様もやれやれと思ったのでございます。ところがお遊び相手と申しましても子供、ときには我を通そうとし、あるいは妬みや怒りをあらわに出します。そういう場で子ども同士やら見守る私どもやらがつい声を荒げるととたんに姫様は耳をお手で押さえて「こわい」とおっしゃられるのです。人声だけではございません。野分の風の音、夏の雷、せみや犬の鳴く声、こわれた板塀を修理する匠どもの木槌の音、どれもこれも姫様には怖い音でございました。そのうち怖いと感じられると、ご寝所の塗籠の間に逃げてゆかれ、落ち着くまで着物を被っておられるようになりました。お遊びでなさるのではない証拠に、姫様は本当に着物の下で震えておられるのです。

 ご成長あそばすにつれ、このご気性はますますひどくなられ、最後にはあれほどかわいがってくださっているお上の声さえも、「怖い音」になりました。ご生母様がご心労で床に就かれたのもこのころでございます。

 忘れも致しません、あれは十の年の裳着もぎの儀式でございました。くりかえしくりかえし言い聞かせ、同じ場をしつらえて慣れていただいた上で臨んだご成人の儀式で、姫様は途中で泣き出されてしまい、それでもなお終わりまでやり遂げさせようとなさるご両親の親心に、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまわれたのでした。大きな音のお嫌いな姫様がご自分であげられているとは思えないほどの悲鳴、耳を押さえ目を閉じながら泣き叫ばれるその声は、御所の外を通る人々をふりかえらせるほどであったのです。

 こうして姫様はまた塗籠の間の人になられました。一度大泣きが起こりますと、十日は塗籠の間におこもりのままです。お食事も台盤所の者が嘆くほど少ししか召し上がられません。風の通らぬ塗籠の間は姫様の涙で、部屋全体が泣いているのかと思われるほど、湿っておりました。お召し替えをするたびに小袖も打掛も重いほど湿っているのでございます。

 お上もまたこの事態に深くお嘆きでございました。このご成人の儀は高位の方々をお招きして姫君を見ていただくことによって、のちのちの御縁組につながる大切なもの。それをあのようにご自身で損ねてしまわれたのですから、「もうこの子は尼にでもなるしかない」と悲観されてしまわれたのでした。実際何十代も前の御代には、同じようにお心を損ねておられた方が、御所の外に出ることもできず、お亡くなりになるまで一生離れの館で仏像をお母様の代わりにして過ごされた例もあったとのこと。あの美しい姫様がそれではあまりに不憫ふびんであると、お上も親としてお心を痛めておられたのでございます。

 そんな折、おそらくはお上の御心の慰めにと皆様が考えてくださったのでしょう、管弦の催しがあったのでございます。謡のない楽器だけの会にしてくださったのも、ご配慮があったのでございましょう。お上は姫様にもお手紙をくださって、楽器の音のみ聞こえて人声の届かぬ距離で一緒に聞いてみてはどうかとお誘いくださったのです。管弦の会の時はほかの用事で訪れる方もございません。わたしどもがお勧めしたこともあって、姫様はしぶしぶ人払いをした対の屋の座敷にお出ましくださいました。

 そこで初めて姫様は龍笛りゅうてきの楽をお聞きになり、その軽やかな調べ、哀調に満ちた曲にひどく心惹かれたご様子でした。翌日さっそくお上にお礼の手紙を書かれ、願わくば今一度あの笛の音を聞きたいと、初めてのおねだりをなされたのです。お上のお喜びようはひとしおでございました。さっそくあちこちにお尋ねくださって、雅楽の家のお生まれで、女でなければと惜しまれた菊女という方が姫様のところへ来てくださったのです。菊女さんはすでに御縁組が決まっておいででしたが、お上のお言葉ならばと、ご婚礼を延期して半年のお約束で御奉公なさったのです。その半年の間に自ら名曲をお聞かせするだけでなく、姫様に文字通りお手を取って演奏の仕方をご指南してくださいました。

 半年の御精進の成果は見事なものでございました。もともと耳の敏い姫様は、師匠の菊女さんの演奏を、そっくりそのまま再現できるまで御修練遊ばされたのです。最後に菊女さんの師匠に当たられる方やお上をお招きして、ご披露の会をしたとき、お二方ともこれが半年前まで笛を聞いたこともなかったお方の腕前であろうかと目を見張られたのございます。お上は感激の涙さえこぼされたと聞き及んでおります。

 笛の修練にいそしんでおられる間は、姫様もそちらに集中なさって今までほど物音に反応されなくなりました。また御所を訪れる方々や下仕えの者共も、姫様の笛の音が聞こえれば自然と話し声や物音に気を遣うようになり、双方にとって都合の良いようになっていったのでございます。ただ、姫様の笛がどれほど上達しようとも、姫様の将来は決して明るくはなりませんでした。すでに都中に姫様のご気性は知れ渡ってしまい、姫様には何のご縁もなく、身の振り方を決められぬままお上も御譲位なされてしまわれました。このまま御所の一角で寂しく一生を閉じていくのだとわたしどももあきらめていたのでございます。

 こちらの若殿さまとのご縁ができたのは、本当に御仏のお導きでございましょう。実は姫様の笛の腕前が都に広まるにつれ、御所に忍び込んで笛の音を聞こうという者が現れたのでございます。あわよくば姫様を垣間見ようとする輩さえ現れました。もちろん狼藉者ゆえ、見つかれば警備の侍に捕まるのですが、さすがにこちらの若殿さまのように笛を合わせて下さった方は初めてでございました。捕まるのを覚悟でこのようなことをなさったのかと不思議に思いながら、お上へ奏上したのでございます。

 二日後、お使いの舎人が参りました。これは千載一遇の機会、何とかその若侍を言いくるめて姫君をお輿入れさせましょうぞ。お上がお願いなされば幕府も動かずにはいられますまい。何、田舎者ならばこそ領地の少しもくれてやれば終生姫君を大切に養ってくれましょう。その上で御子の一人もできたならば双方万々歳ではございませぬか…。

 夢のような話でした。そんなことが叶うのだろうかと思いました。こちらが何と塩梅しようがあの気難しい姫様のこと、あっという間に離縁されてしまうに決まっていると、不仕付けながらお断りをしようと思っていたのです。ところがどこでどう話がなされたものか、月も変わらぬうちにこのご縁はまとまってしまったのでございます。あとは絵物語に夢中な姫様をその気にさせるだけでございました。


塗籠の間 三方を壁に囲まれた部屋。現代では当たり前の作りだが、風通しや採光のため、昔は物置などの用途にしか使わなかった。

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