仕事
帰ろうとして街道まで出ると、神楽の音が聞こえてきた。
「親父どの、姫さまの方には光時さまが見物にいらっしゃることは伝えなくていいのかな。」
「なるほど、そうじゃな。どうせお付きの者もいっしょに来ておるじゃろ。ついでに片付けておくか。」
街道を戻って神社に行く。舞の者も入って本番さながらの稽古である。稽古の見物は只だから、ちゃっかり見に来ている者もいる。あらかたが女子供だ。そこに見覚えのある白髪頭の良い身なりの人が混ざっていた。
「卯木さま。」
と親父どのは遠くから声をかけると、馬を下りてずかずか近寄っていく。
「拙者、大滝の荘の別当をしており申す、惣兵衛と申しまする。大殿の使いでこの神社に参ったところでござる。」
そう名乗って、あとは声を落とした。舞台の端に立っていた栄資どのにキッとにらまれたからである。そりゃ稽古のじゃまになるほどの大声をはり上げたらそうなるだろう。
親父どのがぺこぺこ頭を下げて戻ってくるまで、拙も神楽の稽古を見物した。姫さまの笛が入っただけで、目の覚めるような緊張感がある。いかにも神様に奉納する楽という感じだ。皆の頭の上のような遠い位置で演奏なさっているのに、見事な響きである。
お館に戻って、親父どのは大殿と御家来衆に、拙は光時さまや小者仲間に首尾を報告した。
「ところで姫さまの警護はどうなさいますか、光時さま。」
「ああ、わしがする。」
即答である。
「え、…でもせっかく良い席をとってありますのに。」
「わしには姫の近くが一番良い席じゃ。」
「いや、そうでしょうけど。あそこでは、せっかくの神楽が見えませんよ。」
「他の男が近くに来たのでは、姫も安心して演奏ができぬじゃろう。」
そう言われると、返す言葉がない。祭りだからみな良い着物を着て丸腰で出かけるが、光時さまだけは帯刀して姫様の脇で床几にすわるということになった。
神楽の演奏はとても楽しい。田舎でもこんなふうに何人かで合奏することができるなんて思わなかった。わたしだけ皆と離れたところに席を作られたので、曲のはじめに太鼓の人がととん、と合図を打って下さることになった。これで皆と息が合う。
当日は光時さまや亀井のご家中の方々もお出でになるらしい。見物席から離れているのと、松の木に遮られているのとで、稽古中も特に人目や人声を気にしないで済むのはよかった。光時さまからは文が来て、不埒者が近づかぬよう、光時さまご自身がわたしの近くで警護をしてくださるという心強いお話があった。笛の演奏をしていると他のことに気が向かなくなるので、誰か知っている人に近くにいてもらえるのはありがたい。
神楽の前には巫女舞がある。ここの神社の娘だという人が、謡をしながら教えていた。その謡に聞き覚えがあったので、こっそり曲を演奏してみたら大変喜んでもらえた。もう演奏できる人がいなくなってしまい、何年も謡だけで舞っていたのだという。これも合図を決めてわたしの演奏に合わせて謡と舞をすることになった。
祭りまでの数日間は毎日稽古に明け暮れた。卯木が「お疲れではないか」と心配してくれたが、お月見の演奏会の代わりだと思えば何ということもない。八条は祭りの当日にわたしが着る着物をあれこれ選んで、風を通して支度に余念がない。茜とそではお弁当作りの相談をしている。神社の神主の計らいで、神社へのお供物のおすそ分けが来たのだ。たくさんの野菜と米、川魚を干物にした物、豆腐などである。毎日の食膳もおまわりが増えて、みな秋の馬にならってよく食べている。これも湯治の効能だろう。その証拠に毎日稽古について来る卯木だって、疲れた様子はない。
本番は朝からお祓いを受けて、そのあとで舞台づくりを見物し、見物人を中に入れてから始まるということだった。人が集まって声が聞こえるのは嫌なので、お祓いの後は神主の家で休ませてもらい、神楽の直前に席に着くという手筈になった。卯木が神主に、わたしが殿方の声を怖いと思っていることを説明し、当日は神主はじめ殿方はみな神社の蔵の方で過ごしていただくことになった。わがままなお願いで申し訳なく思ったが、神主はどうせ祭りの日は家に戻っている暇もないのだから、かまわないといってくださった。
「お気遣い、ありがとう思います。」
「なんの。こちらこそもったいなきお言葉。」
自分でちゃんと挨拶ができた。卯木は目を見張っていた。今までのわたしからは考えられない。自分から殿方とお話をするなんて。でもわたしだって、このお祭りの神楽はぜひうまくやりたいもの。