我が家
湯治場には5日いて、6日目にもどってきた。卯木は都を出てからこっちの疲れが全部一度に抜けたのだそうで、「顔のしわがのびるほど」元気がでたそうだ。茜と八条ははるという小女に情がわいたようで、八条は古着の端布で作った袋なぞをみやげにやって「また遊びに来るがよいぞ。」と別れを惜しんだ。天気が悪くなってきたので、家には千代さま用に迎えの馬が来ており、男衆は運んできた荷物をいったん全部下ろして、二人ずつ馬に乗って帰った。天気が良くなってから、荷物はあらためて取りに来るという。
久しぶりの我が家に、わたしもほっとした。温泉は4日目ぐらいからあの急激な眠気が来なくなり、心なしか体が軽くなったような気がする。そういえば帰りの山道は、行きの時よりさっさと歩けた。
湯治場まで来てくださった光時さまは、一晩だけいてすぐにお帰りになったそうだ。お帰りになったあとで、温泉の世話人が文をあずかったといって届けに来てくれた。おなごばかりの湯治だとよからぬことを考える者が出ることがある、その用心のためにわざわざ来てくださったとのことだ。卯木に見せてどういうことかと尋ねたら、盗人予防だという。湯治場にはみな多少なりとも金子を持ってくる。それを狙う盗人がいるのだろうと。
盗人と聞いて怖くなった。都でも盗人はいて、声を立てぬように口を縛られたり殴られたり、ときには刀で切られて死んでしまうこともあると聞いたことがある。丑吉は男だけれども心がやさしいし、頭も回らないところがある人だから、きっと盗人を相手にはできないだろう。光時さまが来てくださって安心できた。
家に戻った翌日、さっそくお礼の文を書いた。千代さま宛と光時さま宛と別々にした。光時さま宛にはわざわざ来てくださったのにご挨拶一つできなくて、とお詫びも添えた。千代さま宛にはたいそう楽しかったことと、また機会がございましたらご一緒致したく、と書いた。はるにも「御忠義目出度覚候」と書いてやった。
でも湯治というのはよかった。いつも家でやることが何もできないので、外で過ごすことが増えたせいか、歩き回ることが苦にならなくなった。御所では庭へ出るのさえ舎人やら衛士やらに来てもらわねばならなかったから、わずらわしくていつも自分の部屋にいたが、湯治場の周りだけとはいえ、自由に歩き回れたのは新鮮だった。これからはそでと一緒に少し散策をしてみよう、などと考える。
翌日、雨があがってから先日湯治についてきた若い男が、置いて行った荷物を引き取りに来た。行きは食料を馬に積んで行ったが、それは向こうであらかた食べてしまったので、背負子に積んできた荷物だけしかない。丑吉と二人で馬に荷物を括り付けていくのを、外までついて行って眺めた。二人はわたしに見られているので、気にしているようだが、馬はおとなしくしている。馬というものは周りのことをよく見聞きして、かしこいものだと聞いたことがある。大きくて力のある生き物だから、私など怖くないのだろう。きちんと括り終わると、男は黙ってわたしに一礼して馬に乗った。
「もし、そこな者。待ちゃれ。」
家の中から卯木が声をかけた。そでが、昨日わたしが書いた文と卯木の書いた文を捧げ持って出てくる。ああ、そうか。ついでに文を届けてもらうのだ。
「光時さま宛じゃ。よしなに頼むぞよ。」
そでが、馬に乗った男に文を手渡している。男はうなずいて文を懐へ入れた。
「千代さま宛もあります。」
と、わたしはまた知らず知らずしゃべっている。
「よろしゅう御頼み申します。」
「… は。…う、承り申す…。」
男は目をまん丸にしてこちらを見てから、あわてて顔を伏せて返事をすると、馬を歩ませ始めた。
そでと丑吉は男に負けないほど目を見開いて、わたしを見ていた。わたしも自分でまだびっくりしている。聞かれたことに返事をするだけで精いっぱいだったのに、なぜ自分から声をかけることができたのだろう。家に入ると卯木も驚いていた。
「姫さま、湯治場であの者と何かお話しあそばしたのでございますか。」
「いいえ。でもなんだか湯治に行ってから、身も心も軽くなった気がします。」
それは本当だった。今度光時さまのお館からお使いが来たときは、どちらへ帰るのか確かめてみよう、などと考えている自分がいた。光時さまのお館は一里の山道より遠いのかしら。