星明り
湯浴みのしたくができたと丑吉が知らせに来た。家にいるときのように一人で着物を脱いで湯浴みをするのではなく、湯帷子という、やわらかに洗いざらした木綿の薄い着物を着て、そのまま大勢で湯に入るのだという。温泉の効能の現れ方は人によって違うのだそうで、中には気分が悪くなって倒れたり、寝込んでしまったりする者もあるのだそうな。そういう万一を防ぐためにも、大勢で入るものなのだという。裏口から板で道が作ってあり、皆で行くことになった。
湯は先に確かめた時よりは温かくなっている。体を沈めると心地よい。七人も一度に入っても大丈夫かと思ったが、広いので思ったほど窮屈ではなかった。
千代さまについてきた小女は、まだほんの子どもであることがわかった。わたしが背が高くないので、同じくらいの背格好のその者も小さい体格なだけなのだろうと思っていたのだ。
「なんと、そなたまだ子どもであろう。乳もまだふくらんでおらんではないか。」
茜が湯に入るなり、その小女に尋ねたのだ。
「へぇ、わっちはまだ十二です。お施餓鬼のちっと前から奉公を始めたばかりで。はると申します。」
「はるは力持ちなんですよ。この子の母親も大殿の館で奉公しておりますの。よく気がつくいい子です。」
と千代さまが言う。
「おまき様の肥立ちがよくなかったので、女手が足らなくなったものですから、少し前倒しで来てもらいましたの。」
「おまき様と申せば、床上げをお済ませになりましたとか。おめでとうございまする。」
と卯木が話を継ぐ。こういう世間話というものがわたしは嫌いだ。直接自分に関わりのない人のことなんか聞きたくもないし、「つきあい」なぞというものに関心もない。
「そういえば大奥様から長松さまの出産祝いのお礼をぜひ申し上げるよう、言付かってきたのでした。姫様、どうもありがとうございました。」
「はあ。」
わたしは贈り物なんかしていない。卯木がやったのだろう。だいたいおまき様も長松さまも知らない。会ったこともないしどんな関係なのかもわからない。あとで卯木に聞いてみよう。
湯から上がる時は別の乾いている湯帷子に着替えて家に入る。湯に入る前はまだ明るかったのだが、もう日暮れである。身体がホカホカしていて、気分がよい。用意してあった夕餉を食べると、急に眠くなった。話などできる気分ではなく、早々に寝てしまうことになった。
目が覚めると翌朝だった。気持ちよくしっかり眠っていい目覚めになった。昨日はなぜあんなに眠くなったのだろう、とそでに聞いてみたら、
「それは姫様が、山道を歩いてお疲れになったからでしょう。おみ足は痛くございませんか。」
と言われてしまった。今まで歩いたこともないほど長い距離を歩いたのに、都からここまで来たときほど疲れていない。なるほどこれが温泉の効能というものなのだろう。卯木と八条は「温泉にあたった」のだそうで、だるくて眠くてしかたがないらしい。茜は朝から元気で、そでと朝餉の支度をしてくれた。
「温泉あたりのときは寝させておくに限りますよ、姫様。はるをつれて池の方へ行ってみてはいかがですか。紅葉にはまだ少し早いかもしれませんが、良い景色ですよ。」
千代さまが眠っている二人の代わりに朝餉の片付けをするというので、それが終わるのを待って、三人で出かけた。昨日歩いた距離の半分も歩かないうちに大きな池に出た。池というので御所の庭にあったものを想像していたのだが、それよりはるかに大きいものだった。水が山の色を映したように緑色である。歩いた体に渡ってくる風が心地よかった。
風に吹かれて気分よく温泉の宿へ戻ると、馬が二頭つながれていた。昨日は一頭だけだったはずなのに。
「まあ、殿ではございませんか。あの山道を馬でおいでになったのですか。」
男たちが寝泊まりしている家の縁先で、光時さまがにこにこしてすわっておいでになるのだった。千代さまは光時さまのおそばに行こうとして、はたと止まった。わたしが千代さまの着物の袖をつかんで、後ろに隠れるようにしたからだ。
「ひ、姫様、どうなさいましたの。離してくださいませ。」
わたしは目を閉じて下を向き、首を振った。はるはびっくりしてただ目をぱちぱちさせている。しばらく様子を見ていた光時さまは、はるを手招きして、小声で何かを言いつけた。その間わたしはといえば光時さまから姿が見えないよう、ひたすら千代さまの背中に隠れ続けた。
「千代さまぁ、そのままゆっくり姫様をお宿の方へお連れして、その後でこちらに来るようにといわれました。」
少し離れたところから、はるが大声で言う。
「そう、ありがとう、はる。姫さま、お聞きになりましたか。お部屋の方にもどりますよ。」
千代さまの袖を放して、自分の着物の袖で顔を隠すようにして、家の中に入った。「おかえりなさいませ」と茜とそでが迎える。顔が赤くなっているのを千代さまに見られたかしら、こんなふうに不意を衝くなんてと、心はぐるぐる考えをめぐらし始める。草履を脱ぐのももどかしく、茜に縋りついた。
「外で、殿様と顔を合わされましたな。仕方ございません。」
と茜は言い、千代さまに
「お見苦しい所をご覧にいれました。あとはこちらでお世話いたしますゆえ、どうぞ殿様にはよしなに。」
と言って、私を抱きかかえて奥へ入った。
「姫様は殿様にお会いする前には気持ちの支度がいるのだそうでございますよ。急に外で、何の支度もなくお会いしたので、驚いておいでなのだと思います。」
とそでも言った。
「まあ、まだそうなのですね。」
千代さまは、そうつぶやくと、外へ出て行かれた。