師弟
「もういっぺん、お願い申します。」
御所でお師匠さんにご指南いただいていた頃、何度も言った言葉だ。はっきりスムーズに話せる。千代さまと光時さまがはっとされたのがわかったが、笛のこととなるとわたしは普段と変わってしまうところがあるのだ。もう一度繰り返される曲を耳で覚えながら、屏風の蔭で私も自分の笛を構える。光時さまが演奏を終えられるとすぐに、耳で覚えた曲を自分の笛で再現した。
「まあ、なんてことでしょう。すばらしいことですわ、姫様。」
千代さまが感激したように声をあげられた。今しがた初めて聞いた曲をすぐに覚えて演奏するのは、お師匠さんにご指南いただいている間にいつの間にかできるようになった。他の人はもっと何回も聞き、間違いを正されて覚えるものなのだそうだ。
「今ので、まちがったところはございませんでしょうか。」
これも決まり文句のように言っていた言葉なので、光時さまが相手でも普通に話すことができた。一拍間をおいて、千代さまが答える。
「まちがいないそうです、姫さま。たった2回聞いただけで、すっかり覚えてしまわれるなんて。本当に神業ですわ。」
光時さまが、手真似で何か千代さまに伝えておられるのだろう。
「え、何? だめということ? ああ、殿が?」
わたしからはなんだか要領の得ないことが聞こえてきた後、
「殿には、とても姫さまのようにすぐ覚えることはできないそうですわ。」
と千代さまが話してくださった。なるほど、そういうことか。わたしは少し誇らしい気持ちになる。
次は千代さまに合図をしてもらって、二人で今の曲を同時に演奏してみた。二本の笛の音が合わさっても、昔お師匠さんといっしょに龍笛で演奏したのとは、違う趣になって興味深い。今度はお師匠さんより頂いた譜面をもってきてもらって、光時さまにお目にかける。
「おお、これはまた…。」
「殿、お声を抑えていただかないと。これは何なのですか、姫様」
卯木がわたしの代わりに譜面の仕組みを光時さまに説明している。卯木の説明に合わせるようにわたしがひとつずつ音を出す。今度は仕組のわかって来た光時さまが自分で演奏なさる。
楽しい時間はあっという間にすぎた。秋の空が赤く染まりはじめ、お二人は帰られた。一頭の馬に二人で乗って帰られたのだそうだ。
「ご機嫌がお直り遊ばされて、ようございましたね。」
「ほんに。こっそりお使いを出してよかった。」
茜と卯木がお見送りをして、こっそり耳打ちしあっているのをわたしは知らなかった。雨で流れたお月見と演奏会の埋め合わせにと、卯木が光時さまに笛を持ってお尋ねくださいとお願いの手紙を出したのだった。
翌日、文が来た。今度は光時さま本人の手である。昨日のご指南はたいへん趣深いものであり、また日を改めて続きをお願い致したく、という内容である。わたしもとてもうれしかった。今度はいつ来ていただけるのかと思うと、それだけで気もそぞろになりそうだ。いやいや、古の物語にも文ばかりで訪いのない淋しさというものは定番である。あてにしないで待つ気にならねばと、心をひきしめた。
そしてとりあえずは料紙を多めに手に入れて、譜面の写本を造ろうと思い立った。写本があれば光時さまと一冊ずつ持って練習したり合わせたりできる。持って帰っていただくことも可能だ。しかも作るのに時間や手間がかかるから、格好の時間つぶしになる。これならば季節外れのホタルのように身を焦がさずとも、次回を待つことができるだろう。
物語の写本と違って、譜面の写本は文字だけでなく笛の図なども入っている。どうしようかしらと考えていたら、手先の器用な茜が図の部分だけ書いてくれることになった。茜も暇を持て余しているのだ。紙は都からここへ来る途中に良い紙の産地があるのだそうで、八条が自分の買ったところに注文を出してくれることになった。古来写経用の紙を作る土地として有名な所だという。紙は特別な木の皮などを材料に、水のきれいな所で一枚ずつ作るものらしい。そんなことも御所にいる間は気にもしなかった。近くにこの紙の作り手がいるのだと思うだけで、なんだか都を離れてここへ来たことがよかったことに思えてくる。
写本作りは楽しかった。大好きな笛の譜面なのだ。書き写しながらも、つい頭の中で演奏してしまう。一枚書き写しては間違いがないか演奏して確かめる。わたしはお師匠さんの演奏したのを耳で聞いて憶えたので、同じ曲でも少し譜面と違っていることもあると発見した。
「雅楽寮ではちがっていたら大事ですけど、姫様は趣味でなされるのですから、ちいとばかりちがっていましてもかましまへん。」
とお師匠さんに言われたことを思い出した。少し考えて私が演奏するままの譜面と、もともと書いてあった譜面と、両方作ることにした。そうだ、光時さまに教えていただいた曲も、譜面として書いておこう。次々とやりたいことが心に浮かんで止まらなくなる。日が暮れてきて、もう書き物ができなくなると、はぁーっと息をついて考えた。早く明日がこないかしら。