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名人

 一番近い農家で休憩していた、永法寺で二番目にえらいという坊さんが観音堂の前にやってきて、松明たいまつの明かりで、うやうやしく経を読みはじめた。まだ西の空には赤みが少し残っているが、上空は星が数えられるほどに暗くなり、たくさんの燈明の明るさが目にまばゆい。大殿や御家来衆が坊さんに近い上席で、いつの間に来たものか、拙の親父殿やこのあたりの別当をしている男、集落の長たちが次席、あとのものは身内ごとに固まって地面に座っている。拙も小者仲間と一緒に古(むしろ)を敷いた上へ正座している。

 本来領主の大殿様が主催する形の施餓鬼会せがきえだから、いちばんえらい坊さんが来るはずなのだが、その坊さんは年寄り過ぎて、もうここまで来ることもできないのだそうだ。読経に合わせて木魚やら鐘やらを小坊主らが神妙な顔で鳴らすので、集まった在の者たち、大滝の荘の者と山のこちら側、出水いずみの荘の者たちにはこれも見世物パフォーマンスのごとしである。読経が済むと、大殿がこれも真面目くさってお礼を仰せになり、ありがたやと頭を下げていた在の者たちも立ち上がって、三々五々月明かりの道を帰っていく。小坊主が帰る人々にお供えの小餅を下げ渡している。

 読経が始まるまでは興奮してはしゃぎまわり、駆け回りしていた子供たちも、あくび交じりで家路につく。夜店も花火もなくったって、これだけで田舎者にはりっぱなハレの日、特別な祭りの日なのだ。現に初めて見に来たはるなんか、たくさんの燈明が広場に並んでいる様に、まだ目をキラキラさせている。

「さあ、次のお楽しみに参りましょうかの。」

 大奥様にしてはめずらしい、控えめな声の号令に、家中の者たちはいそいそと仮小屋のある方へ移動する。燈明に背を向けると、月明かりがあるとは言え、夜の闇の中、用心しながらしか歩けない。西の院の方へ降りる道は近道なので昼間は人通りがあるが、坂がけわしいので下り道は危ない。夜、この道で帰る人は少ないだろう。それでも人の気配がなくなるまで姫様の演奏は始まらないと思われる。

 今のうちにとばかり、仮小屋作りで食べ損ねてしまった夕餉(ゆうげ)の弁当を食べることになった。雑穀の強飯こわめしに、漬物、ウナギの焼いたものが一切れ。大奥様は毎年この日に備えて川で捕まえたウナギを庭の池で太らせ、前日からさばいて大量に白焼きになさるのである。焚火で軽くあぶり直して、味噌のたれをつけたウナギはおいしかった。昼間の暑さもおさまってきて、腹が満たされると眠くなる。大殿や御家来衆には酒も出て、皆さまご機嫌である。

 そこへ、笛の音が風に運ばれてきた。

 皆、手にしていた器や箸を下ろし、しん、となって聞き入った。

 昼間聴いた曲とはちがうのだろうか、同じなのだろうか。少し物寂しいような、懐かしいような気がしてくる。お施餓鬼は死んだ祖先があの世で食べ物に困らぬようにと御仏に食べ物や花を供えて、代わりに届けてもらう行事だと聞いたことがある。こんな美しい笛の曲を聞いたなら、仏様だって心を動かされることだろう。拙の死んだ婆様ならば、若かりし頃の着物を被って舞い始めるに違いない。婆様は神主の娘で、奉納舞の名人だったそうだから。

 光時さまは目を閉じて、じっと聞き入っておられるようだった。都で初めてこの笛の音を聞かれて以来のあれこれをずっと思いおこしておられるのだろう。いや光時さまや拙ばかりではない、ここに集った者皆が皆、あるいは亡き人々を思い出し、あるいは己の来し方を思って、じっと笛の音に心を委ねているのだった。年端のゆかぬ妹のはるでさえ、しんみりした顔をしている。おなご衆の中からはすすり泣きの声も聞こえていた。

 いろんなことを考えているうちに、いつしか笛の演奏は終わっていた。みな黙り込んで、放心の態である。

「まさに名人の腕前じゃな。鬼神も心を動かすというやつじゃ。」

大殿が言う。然り然りと、皆さまもうなずかれる。

「光時、そなた明日の朝になったら、よくお礼を申し上げてくるのじゃぞ。」

感涙をぬぐいながら大奥様も言った。

 酒気が程よく抜けてきたところで、月も中天にかかった。大殿たちは館まで戻られることになり、簡単な支度が始まる。夜駆けも戦の時の鍛錬とはいえ、月があるから街道を駆けるのも楽で、半刻ばかりで帰れるらしい。 

 拙は去年はまだ馬に乗る練習中で、危ないからと言って夜駆けには入れてもらえず、寝ずの番のほうに組み入れられていた。もっとも子ども扱いされて一晩寝させてもらったので、ひとつもお役には立たなかったのだが。今年は予想通り光時さまとその側近のお二人がおなご衆のための寝ずの番に残られるようだ。今年はせめて火の番なりともお役に立たねばなるまい。


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