87.前夜の不安と家族の記憶(閑話)
今回は閑話です。
謁見の前日。私は明日への不安が大きく、色々と考え事をしてしまっていた。
オデット様がここにいらしてから、オデット様と出会ってから、二週間と少しが経過した。
オデット様に魔力制御をお教えする日々。オデット様がお風邪を召された時。
オデット様に魔術の講義をする日々。オデット様が寂しさから涙を流された時。
全て、覚えている。全て、思い出せる。鮮明に、色鮮やかに。
オデット様の手に触れた感覚も、その魔力量に気圧されたことも、膝の上に乗る身体の軽さに驚いたことも、その目が私を愛おし気に見つめてくれたことも。
私はこれまで、記憶に残る出来事、というのは、大きく感情が揺れた時だけのことだと思っていた。
けれど、オデット様と出会ってからは、何気ない日常の会話も全て、覚えていられるのだ。
不思議だ。何故なのかはよく分からない。
けれど、大切にしたいと思っているものを、大切に持ち続けていられることが、とても嬉しい。
オデット様との思い出で、忘れていることなど、一つもない。
いや、忘れている訳ではないのだが、一つ、分からないことがある。
私はいつから、オデット様のことを大切に思っていたのだろうか。
最初から、と言われれば、そうなのかもしれない、と思う。
あの文具屋で大切にしてほしいと願われた時から、と言われれば、それもそうだろう、と思う。
けれど、やはり、最初から全ての記憶が鮮明に刻まれているということは、最初からだったのだろうか。
他人から見れば、一目惚れ、という一言で済ませられるのかもしれない。
けれど、惚れた、というよりも、大切なのだ、という方がしっくりとくる。
遠目で見ていて、急激に好きになった、というよりは、最初から私の近くにあって、私の心を温め、解かしてくれた、という感じだろうか。
そう思えば、オデット様が何故、私のことを大切に思ってくれているのかも、わからないな。
私が思い付く、分からないこと、というものは、大抵オデット様に関係することだ。
オデット様はよく分からない。けれど、知りたいと思えるし、助けたいと思えるから、分からないことに気付けるのだろう。
多分、私に分からないことは、世の中に無数に転がっていて、けれど私はそんな周囲に視線を向けることはなかったから、分からないということにすら、気付いていないのだ。
何だか、今の私とオデット様は、夢物語に見るような家族、みたいだ。
そんな淡く儚い願望を考えてしまい、私は慌てて、その考えを振り払う。
けれど、そこでふと、それでもいいじゃないか、と思ってしまった。
だって、私には家族、と呼べるような人はいないのだから。
母は亡くなり、父とは顔すら合わせない。継母の第二夫人や、その子どもである弟妹たちとは、連絡すら取らない。
使用人たちも家族とは違うし、ジュネたちも同僚と言うか、部下というか、家族ではないし。
家族って何だろう。分からない。
けれど、何だか、オデット様ともし、もし家族になれたら、とても幸せになれる気がする。
私は慌てて、飛躍する思考を、目の前の現実に戻した。
私は今がこれまでの振り返りをしているのは、父への手紙を書くためだった。
オデット様のことはまだ話せないし、話すつもりもなかった。
しかし、そうなると、この二週間ほどの出来事は、何も無かったことになる。
そうか。何もないのか。全てはオデット様がいてこそであって、私には何も無いのだ。
父へは月に一回の頻度で手紙を送っている。
私の生まれた故郷では、最低限と言われるくらいの、本当に必要最低限の頻度と内容だ。
何故なら、普通は月に一回は一緒に食事をしたり、お茶会をしたりするのが普通だ。
そうでなくとも、短い時間でも顔を合わせたり、或いは長文の手紙を送ったり、そうするのが普通なのだ。
手紙だけのやり取りであれば、一週間か二週間に一回は送るらしい。
そんな中で、私は最低ラインにぎりぎり到達しているか、という程度の接触しかしていない。
それは勿論、毛嫌いしているとか、確執があるとかではない。
ただ、意味とか意義とか必要性とか、そういったものを何も感じないだけで。
だから、これまでは事務的に、季節の挨拶、こちらは変わりないという言葉、季節ごとの相手の体調を気遣う締めの言葉、ということだけを書いて、送っている。
それは父も同じだった。
至って事務的で、平坦な手紙。
父が公爵家のことを話すこともなければ、協会の内部を探ることもない。
こちらもあちらも、互いに干渉しない。
それが当たり前で、だからこそ、反対に家族というものに、言い様もないほどの憧れのようなものを抱いていた。
オデット様と家族になれたら。
いや、やめておこう。私は今、とても幸福で、幸運で、満ち足りているはずなのだから。
私はこれまで通りに、父への手紙を書き終えたのだった。




