体操服からドレスへ、そして本格メイク……わたし、今どこにいるの?①
朝の空気が頬を撫でる。わたしは深呼吸をしながら、軽くジョギングのペースを上げる。この数週間、毎日のように屋敷の庭や敷地の隅っこを走ってきたおかげで、以前に比べて息が上がりにくくなった。脛の筋肉に心地よい張りが生まれ、ふくらはぎも少しずつ引き締まっている気がする。
「よいしょ……はあ、はあ……。うん、今日は調子いい!」
まだ全速力で走れるわけじゃないけれど、体力の向上を実感するたび、ちょっとだけ誇らしい。わたし――転生前は30代の男性だった自分が、今や14歳の貴族令嬢エリシア・エイヴンフォードとしてこの世界を生きている。以前は数分走っただけでバテて倒れかけたのに、今はこうして数周はしっかり走れるようになったんだから、成長している証拠だろう。
もっとも、この「体操服」姿にはいまだに慣れきれない。メイドたちが特別に仕立ててくれたとはいえ、膝上の短いボトムスに体のラインが出るトップスは、少女らしい腰や太ももがどうしても目立ってしまう。走っていると、布が軽く揺れてお尻の形が分かりそうで恥ずかしい。しかもバストは小さいながらも存在感があって、走る衝撃で少し揺れるのも気になる。とにかく、「自分が女の子なんだ」という事実を否が応でも思い知らされるウェアなのだ。
でも、これを着ると圧倒的に動きやすい。裾を踏む心配もないし、コルセットのきつい締め付けから解放されるのは、走るときに最高の開放感を与えてくれる。おかげでトレーニングが捗り、体力がついてきたのは間違いない。
「ふぅ……今日も、あと1周だけ行こうか……」
ペースを落としてクールダウンに入りながら、庭をぐるりと回る。敷地内には花壇や木々が整然と配置されていて、朝の柔らかな日光に照らされている。メイドたちや庭師の方々が手入れをしている姿を遠目に見ながら、わたしは軽く汗ばんだ体をタオルで拭う。そろそろ終わりにしないと、これ以上走ると朝食の時間に間に合わない。
「お嬢様、今日もお疲れさまでございます」
メイドのマリエが、屋敷の裏口あたりでタオルを差し出してくれる。わたしはペコリと頭を下げて受け取り、水分補給用のボトル(プラスチック?みたいな素材がこの世界にもあるらしい。)を一口飲む。かいた汗が少し冷えてきて、体が軽く震える。運動後のこの感覚に、いつの間にか慣れ始めている自分がいるのが不思議だ。
「ありがとう、マリエ。だいぶ走れるようになってきたかも……最初は数分で倒れそうだったのにね」
(最初の時を思い出すと、少し恥ずかしくも感じる。)
そう言うと、マリエはにこやかに笑みを浮かべる。
「ええ、本当に。お嬢様の姿勢もピンとしてきて、以前とはまるで別人のようですよ。凜々しく、お顔色もよくて、ますますお美しくなられました」
「お、美しい……? ちょ、やめてよ、そういうの……」
つい照れてしまい、わたしは顔をそむける。前世の俺は30代の男だったのに、美しいとか可愛いとか言われるのは、まだまだ慣れない。けれど、この身体は紛れもなく14歳の少女。頑張って体を動かせば、筋肉云々より先に、女性らしいしなやかなラインが強調されてしまうようだ。
(でも、ま、凜々しいって言われるならまだ“男成分”が残ってるってことだよな。完全に女扱いよりは気が楽かも……)
そんな微妙なプライドを抱えつつ、わたしは軽くストレッチをして息を整える。メイドたちはわたしが体操服からドレスに着替える準備を整えてくれるのだけれど、最近は「シャワー代わりに湯浴みする」というルーティーンが当たり前になっている。そのため、いったん浴室へ向かうのが日課だ。
「さーて、今日も汗を流すか。これが終わったら朝ごはんだね」
「はい、お嬢様。朝食は準備万端ですので、どうぞゆっくり湯浴みをお楽しみください」
マリエやセシル、そしてほかのメイド数名の視線を気にしながら、わたしは裏口から屋敷へと戻っていく。途中ですれ違う使用人たちは、体操服姿のわたしに一瞬目を丸くするが、もう皆慣れたものだ。最初のころは「お嬢様がなんて格好を……」とささやかれたものだが、今では「はいはい、今日も元気だね」くらいの反応。そう思うと、運動の習慣がすっかり定着してきた気がして、ちょっと嬉しくなる。
廊下を抜け、湯浴み室のある部屋へと向かう。汗をたくさんかくようになったぶん、毎日シャワーを浴びる習慣がついたのも大きな変化だ。前世でいう「お風呂」は基本的に大きなバスタブタイプだが、この世界では魔法を使った湯沸かし装置が普及しており、シャワーのようにさっと浴びられる設備が整っている。貴族ならではの快適設備……とはいえ、男女格差や社会問題は多いが、こういう便利さだけは最高だ。
(よし、汗もびしょびしょだし、早くサッパリしよう……)
ドアを開けると、メイドが中を整えてくれていて、タオルや着替えの下着などがきちんと置かれている。わたしはタオルを持って「ありがとう」と一声かけ、あとはひとりになれる空間で体操服を脱ぎ捨てる。肌に張りついた汗がベタベタで気持ち悪いけれど、これも運動の成果の証。なんだか誇らしい……とはいえ、鏡を見れば、しなやかな曲線を持つ自分の少女の体が映り、まだ心臓がドキッとするのは事実だ。
(なんか、前よりは細いけど筋肉がついてる……? いや、でもこうして見ると丸みは確かに増してる気も……。胸は……うーん、相変わらず小さいけど、下半身は……)
自分の体型を値踏みしている自分に気づき、わたしは慌てて顔を振る。前世なら「男が自分の体のラインを凝視」なんて感覚がなかったけれど、今は女の子の体。なんとも言えない違和感と羞恥を覚えるが、これが「自分の姿」だと理解しなくちゃいけない。少なくとも、昨年までこの体をもてあましていたエリシア本人の感覚が自分に溶け込んでいない分、まだ戸惑いは大きい。
(まぁ、走るときのフォーム確認というか、健康チェックみたいなもんだよ、うん。変にやましい気持ちはないし……!)
心の中で言い訳をしつつ、シャワーをひねってお湯をかぶる。シャンプーで髪を洗い、ボディソープで汗まみれの肌を洗い流すと、運動後の爽快感がピークに達する。湯気が少し立ちこめる中で、背中や太ももをそっと触ると、肌が前より弾力を増したような錯覚すらある。女性としてのラインが整ってきたというのか、筋力がついて基礎代謝が上がったのか……よく分からないけれど、とにかく健康的にはなっているようだ。
「はぁ……やっぱりシャワーがいちばん気持ちいいな……」
わたしは小声でつぶやき、しっかり泡を流すと、バスタオルを巻いて脱衣所へ向かう。そこに控えていたメイドのセシルが「お嬢様、こちらへどうぞ」と言い、わたしの髪を拭いてくれる。最初のころは自分で拭くと申し出ていたのだが、メイドたちは「一人では至らないところまでケアしきれないのでは……」と心配してくれる。実際、ドライヤー代わりの魔法具を使った乾燥作業も、彼女たちが丁寧にやってくれるから助かる面も多い。
「お嬢様、今日のご予定は……特に入っておりませんね」
セシルの言葉に、わたしは「あ、そうなんだ」と思わず呟く。昨日までは参与のシルフィーナさんと会議の進捗を聞いたり、書類に目を通したりと意外にバタバタしていたが、今日はめずらしくフリーらしい。昨日走りすぎてちょっと疲労もあるし、ゆっくり過ごすのもいいかもしれない。
「それじゃあ、部屋で本でも読もうかな。それか、ゴロゴロして過ごすとか……」
メイドたちは苦笑しながら「お嬢様は本当に変わられましたね。以前は書斎にこもることなんてなかったのに……」と楽しそうにつぶやく。確かに、転生してからは「知識」を身につけようと急に本を開くようになったのだが、それでいて基本はスローライフ志向という、なんとも中途半端な状態だ。
「ええと……じゃあ、とりあえず部屋に戻ろうかな」
湯浴みを終え、ふわふわのバスローブを羽織ったまま部屋へ移動する。今日の衣装はどうしよう。せっかく予定がないなら、地味目のワンピースでいいかなと思うが、メイドたちは「でもお嬢様、いまの凛々しさをいかして、もう少し映えるドレスをお召しになってみては?」とすすめてくる。
「凜々しいって、そんなに言わないでよ……わたし、別にそんなにかっこいいわけじゃないし」
照れながら首を横に振る。すると、別のメイド・マリエが、何やら思いついたように声を弾ませる。
「では、お嬢様、メイクなどいかがでしょう? 最近、お姿勢も良くなられ、より一層おきれいでいらっしゃいますから、さらにお化粧を施せば本当に華やかになりますよ!」
「お、お化粧? ええっ、やめて、恥ずかしい……」
思わず後ずさる。前世では男性だったから化粧をした経験などほとんどないし、こっちに来てからも最低限のケア程度、リップクリームを使うとか、や簡単なスキンケアなどしか、してこなかった。がっつりメイクなんて、わたしの中ではハードルが高すぎる。
しかし、メイドたちは目を輝かせて「お嬢様の美しさをより引き出す絶好の機会です!」と盛り上がっている。もうダメだ。彼女たちがこの“イベント”モードに入ると止められない。仕方なくわたしはバスローブを脱ぎ捨て、着替えを済ませたあと、部屋の隅に用意されたドレッサーチェアに腰を下ろす。
「ああもう……覚悟はいいけど、ほどほどにしてね?」
「お任せください、お嬢様!」
そう言うや否や、メイドたちはあれこれと道具を取り出し、わたしの髪を軽く整えながら化粧品を並べ始める。ファンデーションやアイシャドウ、チークなど、前世の“男”には馴染みのないアイテムばかり。魔法由来のコスメもあるらしく、微妙にキラキラした粒子が動く光景が不思議だ。わたしは緊張して背筋を伸ばしたまま、彼女たちの指示に従うしかない。
――こうして、ほんの少し動きにくいドレスに着替え、メイドたちによる“プチメイクアップ”がスタート。運動後の汗も流したし、肌のコンディションは悪くないはずだけど……正直、どんな仕上がりになるか想像がつかなくて、心がドキドキして止まらない。
(ええい、ここまできたら腹をくくるしかない!)
そう意を決め、わたしはまぶたを閉じてメイドの指先に身をゆだねる。何やら柔らかいブラシが肌を撫で、ほんのりとした香りを漂わせる。時々、「お嬢様、目をもう少し開けて……」「唇を少し閉じ気味に……」などと声がかかる度に、わたしは言われるがままに表情を作る。これはこれで、結構な忍耐力が必要だ。
(こういうのは、女の子なら日常なんだろうか……でも、14歳だし、そんなにガッツリ化粧しないよな? 貴族令嬢だから特別なのか……?)
頭の中であれこれ考えているうちに、メイドたちは楽しそうにメイクを続ける。時々、「あら、可愛い」「こんなに映えるお嬢様は初めてかも」なんて声が聞こえてくると、勝手に顔が熱くなってしまう。
「……はいっ、完成しました、お嬢様!」
セシルの明るい声に促されて、わたしはぱちりと目を開く。目の前の鏡に映る自分――普段とちょっと違う雰囲気に、思わず言葉を失う。淡い色味のチークに、瞳の輪郭がやや強調されているせいか、大人びているようでもあり、でも幼さも残る、なんとも不思議な可愛らしさを帯びた少女がそこにいる。
「これ……ほんとに、わたし……?」
「あらあら、お嬢様、驚くほどお綺麗ですわ」
わたしが呆然としていると、メイドたちは嬉しそうに口々に褒めてくる。正直、前世なら「可愛い」と言われる対象ではなかったし、男としては別に興味のない領域だったから、どう反応すればいいのか分からない。でも鏡の中の少女は、どう見ても可愛い。14歳という若さが、一番鮮やかに映えている気がする。
(いかん……自分にドキドキしてどうする。前世は男だし、14歳に反応するなんて大人としてどうなんだ?……けど、でも今の身体はこの子なんだし、気になっちゃうのも仕方ないよな……)
頭がこんがらがりそうになる。赤面したわたしを見て、メイドたちは「お嬢様ったら照れてらっしゃる」と笑顔を浮かべる。うう、これ以上は勘弁して……。
「はぁ、もう……分かった分かった。せっかくだから今日はこれで過ごすよ。でも、きっと恥ずかしいから、人前に出る予定はないんだし……外に出たりはしないからね?」
「かしこまりました、お嬢様。それでは、メイクが落ちないようにお気をつけくださいね。お食事の際や、お茶を飲む際も、なるべく口元を丁寧に扱われたほうがいいかと……」
セシルが真面目な顔でアドバイスしてくる。メイクのノウハウなどまったく知らないわたしは、正直「そんなことまで気をつけるのか……」と唖然とする。ついゴシゴシ拭いたり、無造作にカップを飲むと、せっかくのメイクが台無しになるらしい。こういう細かい気遣いが、貴族令嬢のたしなみというわけか……。いや、女性って、大変なんだなぁ……。
「お嬢様、メイク落としの際はわたしたちがサポートいたしますので、夜になりましたらお呼びくださいませ」
メイドのマリエがそう言って微笑む。わたしは「あ、ありがとう……」と曖昧に頷きながら、再び鏡を見る。メイクで華やかになった“自分”の顔に、まだ心が落ち着かない。可愛い、という事実が、なぜか恥ずかしくて、でもちょっと嬉しい。複雑すぎて頭がぐるぐるだ。
こうして、わたしは人生初(?)の本格メイクを施されたまま、一日をスタートすることになったのだった。自分の体と顔に戸惑いつつ、でも“可愛い”を少しだけ楽しむ――そんな朝の幕開けである。