2
「うるさくしてごめんなさい、ニワトリさん。私はマリーよ」
「こんばんは、人形のお嬢さん。私は、この鶏小屋の主、キケリキー男爵です。ところで、泣いていた理由をうかがってもよろしいですか?」
キケリキー男爵は、礼儀正しくたずねてきた。
マリーは、かくかくしかじかと事情を説明する。
「なるほど、それは災難でしたね。しかし、落胆するのは早計と言うものです。あの月の下をごらんなさい」
遠くに橋脚と橋げたのシルエットが見えた。その上を、白いヘッドライトと赤いテールライトが、いくつも行き交っている。
「高速道路だわ!」
おばあちゃんの家へ向かう途中、こう言う橋の道をいくつも通ったのを覚えている。
「いかにも。そして、道と言うものは必ずどこかへつながっているものです。あれをたどれば、あなたが目指すパーキングエリアにも、きっとたどり着けるでしょう」
「そうね。教えてくれてありがとう、キケリキー男爵」
マリーは、がぜんやる気が出てきた。高速道路まではずいぶん遠そうだが、立ち止まっていたのでは永遠にたどり着くことはできない。
「礼など不要ですよ、お嬢さん。私もご婦人の笑顔と言う、素晴らしい報酬をいただいています」
キケリキー男爵は、どこまでも紳士だった。
「それでも親切には親切をお返ししたいわ。私に何かできることはある?」
「そうですね」
男爵は、ちょっとだけ考えた。
「実は昨日、あの人間が『寒くなって来たし、そろそろ水炊きでも食べたいなあ』などと、不穏なことを言っていました。おそらく、私は遠からず絞められ肉にされてしまうでしょう。そうなる前に、ここから逃げ出せると嬉しいのですが」
親切にしてくれた男爵が、水炊きにされ食べられてしまう。そんなこと、見過ごせるはずがなかった。
「わかった。私に任せて!」
マリーは収穫コンテナから飛び出し、鶏小屋の金網に取り付いた。そうして、よいしょよいしょとよじ登り、扉の掛け金をがちゃりと外す。
キケリキー男爵は、立派なトサカのある頭で扉を押し開け、鶏小屋の外へと飛び出した。
「おお、外だ。私は自由になったのだ!」
男爵は満月を見上げ、大きくくちばしを開いた。そうして、コケコッコーと大声で鳴こうとするが、
「待って、男爵。今鳴いたら、おじいさんに気付かれちゃうわ!」
マリーは慌てて止めた。
「おっと。まったく、あなたの言う通りです。さて、それではマリー」
「はい、男爵」
「私の背中に乗ってください。パーキングエリアまで、私が送り届けてあげましょう」
「まあ、ありがとう!」
ニワトリの足の速さがどれほどかは知らないが、人形が歩くよりはずっと速いに違いない。マリーはさっそく、キケリキー男爵の背中にまたがった。
「重くない?」
「なんのなんの。ヒヨコよりも軽いですよ。それでは振り落とされないように、しっかり捕まってください」
マリーが首根っこにしがみつくと、キケリキー男爵は短くコケっと鳴いてから、高速道路を目指して一直線に走り出した。当然、道路などは通らないから、藪や草原を突っ切る格好になる。景色はビュンビュンと後ろへ流れ、時には崖を滑空することもあった。
「待って待って、ちょっと止まって!」
メリーは振り落とされまいと、がんばってしがみついていたが、いよいよ目が回って来たので男爵を止めた。
「おや、どうしました?」
「ちょっと休憩させて。なんだか、世界がぐるぐる回ってるの」
マリーは男爵の背中から降りて、地べたに倒れ込んだ。
「これは失敬。外に出られた喜びのあまり、全力で走りすぎました」
しかし男爵は、息一つ上がっていない。
「こんなに早いなんて、ちっとも考えてなかったわ」
「しかし高速道路まで、まだまだ距離があります。夜明けまでにたどり着ければ良いのですが」
「でも、昼間の方が走りやすくない?」
ニワトリは夜目がきかないのだ。
「これだけ満月が明るければ十分ですよ。それに、今の私は逃亡の身。人目に付かない夜は、むしろ都合が良いのです」
それは、マリーも同じだった。動き回っているところを人間に見つかれば、オバケと間違われお寺や神社へ連れて行かれてしまう。
マリーは立ちあがり、両手で自分のほっぺたをぴしゃりと叩いた。こんなところで、ダウンしている暇はない。
「もう大丈夫。さあ、行きましょう」
キケリキー男爵は、こくりとうなずいてマリーに背中を向けた。
マリーは再び男爵の背中にまたがる。
しかし、マリーが男爵の首根っこに掴まるやいなや、男爵は突然走り出した。
「獣の臭いがします」
走りながら男爵は言った。
マリーにはまったくわからなかったが、そもそも彼女には鼻と言うものがない。
「待て、待ちやがれ!」
背後からシャーと威嚇の声が上がった。
マリーが首をひねって見ると、大きく口を開けよだれを垂らしながら掛けて来るアライグマの姿があった。
「逃がさねえぞ、ニワトリ。おいらの牙で、その首を噛みちぎってやる!」
マリーは恐ろしくなって、男爵の首にぎゅっとしがみついた。
「心配いりません、マリー。あの程度の獣、簡単に振り切って見せましょう」
キケリキー男爵はそう言うが、明らかにアライグマの足の方がずっと速い。そして、いよいよその鼻先が届きそうになった時、男爵は激しく翼を羽ばたかせ、空中へ舞い上がった。
「なんだと?」
驚くアライグマの声が真下から飛んできた。
とは言え、男爵はニワトリ。さすがに空高く飛び去ることはできない。そのかわり男爵は、近くにあった高い木の枝に飛び乗り、足下の獣に軽蔑のまなざしを送った。
「愚かな獣よ。ニワトリが飛べないとでも思ったか?」
「生意気な!」
アライグマにとって、木登りは得意中の得意。凶暴な獣は幹に取り付くと、するする登って男爵が止まる枝に迫った。
すると男爵は、小ばかにするようにふわりと舞って、少し離れた別の木に飛び移った。
アライグマは歯をむき出してうなり声をあげると、幹を駆け下りて、男爵がいる木を登る。
もちろん男爵は、アライグマの口が、もう一息で届こうかと言うところで、再び他の木に飛び移る。
そんな追いかけっこを三度ほど繰り返したところで、とうとうアライグマはしびれを切らした。
「おのれ、見ていろ!」
アライグマは枝を大きくゆすり、キケリキー男爵のいる枝めがけて空中に身を躍らせた。
すると男爵は枝から飛び立ち、なんと飛んでくるアライグマへまっすぐ突っ込んで行く。そうして黄色いかぎ爪で、獣の頭をしたたかに蹴りつけた。
「ぎゃっ!」
アライグマは悲鳴を上げて、木の枝の間に落ちて行き、ドスンと言う音を最後に静かになった。
キケリキー男爵は、優雅に地面へ舞い降りた。そのすぐ足元には、仰向けに両手両足を広げ、すっかり伸びてしまったアライグマの姿があった。
「すごい、やっつけちゃった!」
マリーが驚いて言うと、男爵はふふっと短く笑った。
「これで、こやつもこりたことでしょう」
マリーを乗せた男爵は、ふわりと地面に降り立ち、再び高速道路を目指して走り出した。