02_コギトとエルゴ
「やあやあススム君。やっと気づいてくれたかい。」
散らかった作業机の上。パソコンの画面から切り取ったようにほんのりと発光している白い物体。
「ずっと一緒に居たのに、随分とよそよそしい反応だね。まるで化け物を見るような眼をしてる。」
そう語る化け物の背中には悪魔の羽のようなものが生えていた。そのおかげか、化け物は机から数10cmほど浮いているように見える。
「おいおい、なんか喋ってくれって……無視は傷つくからさ。」
あまりの非日常的な体験に呆気をとられ、蝋で固められたように動けなくなった俺を、化け物はそう捲し立てる。全長30cm程の黒い化け物。全国のゆるキャラを平均して愛嬌を少し引いたような顔面と等身に、悪魔のような羽と尻尾。そして頭上には天使のような輪っか。なんともチグハグな生物が、俺の眼前には確かに存在していた。
「そんなに目を擦っても、君の目が傷つくだけだぜ?まあさ、君がこういうの信じない正確なのは昔っから知ってるけどさ。」
一見女性のような、はたまた幼い男子のような、芯のある柔らかくて高い声。なんだか懐かしいその見た目も相まってか、幽霊や怪獣の類と遭遇した時のような恐怖心は自然と湧いて出なかった。
「お、お前は何者なんだ?これはどういうことだ?」
安心感が多少はあると言えど、相手は未知の化け物に変わりない。いざ未知に踏み入るとなると、少し震えた情けない声が絞り出された。
「僕のことを覚えてないなんて……こんなにショックなことが、この世にはあるのだろうか……しくしくしく、しくしくしく。」
化け物は振袖のようなものが着いた手で片目を覆い隠し、馬鹿にするほど大袈裟にコミカルな泣くフリをした。
「なんだよ。他人が泣いてるっていうのに、君は手の一つも差し伸べやしないのかい?君がこんな薄情な人間になっていたなんて、僕は悲しいよ。」
泣く演技を辞めた化け物は、首をぐるりと回して部屋中を一瞥すると、溜息をつくのとほぼ同時にベッドの上に頬杖をついて寝転がった。
「あとね、君ぃ。君が覚えてないのなら、僕は君にとって初対面のはずだろう?それなのに、いきなり『お前』とか失礼だよね。せめて拙くても敬語を使うべきだ。それに感情が昂った時に早口になる癖、治ってないんだね。小さい頃は個性的でも、大人になったら不誠実で信頼感のないイメージに繋がるから、気をつけた方がいいよ。」
一見確かにと納得し反省しそうになったが、2秒後は納得は怒りに変わった。初対面だと思っている相手にいきなり上から目線でアドバイス。「失礼なのはお前の方だし、早口なのもお前の方だ。」そう言ってやりたくなった。だが、これをオブラートに包まずに話せば、この化け物の性格上、また面倒な説教を垂らされるに違いない。そう察知した俺は、奥歯で溢れ出る不平不満を噛み潰しながら、小説たる面持ちで明瞭な反論を展開してやろうと、大きく息を吸い込んだ。
「あのなぁ……」
「ちょっとエルゴ! 流石に失礼なんじゃない?」
目の前の化け物とは違う持ち主の声が響いたと同時に、俺の溢れ出る怒りを感知したかのごとく、再びディスプレイから強い光が漏れた。目を瞑らずにはいられない程の尖った光。今度は両腕を使って、光から目を覆い隠した。
「事実を言ったまでじゃないか、コギト。何が悪いって言うんだい?」
瞼を開くとそこには、先程の黒い化け物を白い塗料に丸ごと漬けたような、そんな見た目をした化け物がもう1人、黒い化け物と言い争いをしていた。
「事実って……人を浅はかな部分だけで推し量るのは愚行だって、そんなの当たり前のことじゃない?人の心っていうのはもっと深くて、温かくて……きっとそういうところにあるんだと思うの。」
「コギトはいつもそうやって甘やかしてばかりだ。君の安い共感は、人をダメにする。もっと事実を、客観的事実をもとに、人の悪いところはどんどん治すべきだ。それ故に、人は成長するし、それが道徳だと思うよ。」
白と黒、対極的な主義主張を展開する2匹の化け物は、息つく暇もなく延々と討論を続けていた。いつ終わるんだろうか……この化け物たちが、妙に馬鹿馬鹿しい討論を繰り広げているという幼稚な印象が俺を安心させたのか、それともゆるキャラのような見た目が緊張感を与えにくいからなのか、それとも日々の疲労が悪戯したか、俺は未知の化け物2人の目の前にしてもなお、ひどい睡魔に襲われた。
2匹の声がだんだんと遠くなっていくように感じる。
「偉そうに言うけど、エルゴは何も分かっちゃいないよ。そもそもね……」
「コギト、君は本当に浅はかだ。それは偽善と言うよりも悪意に他ならないよ……」
2匹の会話の音像が霞のように捉えられなくなってきた頃、だんだんと視界の霧が濃くなっていき、俺はとうとう眠りに落ちてしまった。