29.名ばかりの王女
グレイシーは、名ばかりの王女だった。生まれてすぐに親に王宮の門の前に捨てられ、運良く王妃に拾われてジェルムストーン王家の養子になった。
グレイシーが捨てられた日、本物の王女は拐われてしまったのだという。彼女の名前が発表されるより前にいなくなってしまったので、公での呼び名はない。ノーマイゼ王国の民は、いなくなってしまった王女のことは、本物と呼び、グレイシーは名前があるにもかかわらず――偽物の王女と呼ぶ。
王妃セシリアは、優しい人だ。捨て子のグレイシーにも、本当の娘のように接してくれた。美しいドレスを着せ、贅沢な食事をさせ、高い水準の教育を施した。
彼女の愛情も、それらの環境も、全て本物の王女ルセフィアネが享受するものだったのに。
捨て子のグレイシーが優遇されるのを、よく思わない者も多くいた。王宮のメイドの中には、グレイシーの食事の中に虫を入れるものもいたし、グレイシーの物を隠す人もいた。
けれどグレイシーは、奥歯を噛み締めて耐え忍んだ。
捨て子だからと見下した人たち全員を、見返してやる。そんな気持ちで、王女としての教育に必死に励み、礼儀作法を叩き込み、刺繍や楽器、乗馬などの素養も身に付けた。
グレイシーが一人前の娘になるころには、国民の多くがグレイシーを王女と認め、馬鹿にするような人の方が少数になっていた。
けれどずっと恐怖があった。いつか本物の王女が帰ってきたら、自分は一体、どうなってしまうのだろうと。
自分は、王女としての生き方しか知らないのに。
だから、初めてグレイシーに舞い込んだ、ダニエルソン公爵との縁談に執着した。王家との縁が深い公爵夫人になれば、王女ではなくなっても、自分の身分は保障される。
ジョシュアに愛されていないということは分かっていたし、グレイシーも特別な情を寄せていた訳ではない。
しかし、このチャンスを逃したら、また自分は、本物の王女の影に怯え、偽物として過ごしていかなくてはならない。
そう思って、縋ってきたのだ。
「あのね、グレイシー。あなたに報告があるの」
「何……でございますか? 王妃様」
ジョシュアが誕生日会で倒れて、床に伏せるようになり、今にも命の灯さえ消えてしまいそうなときに、セシリアに呼ばれた。
いつもにこにこ、のほほんとしているセシリアが、いつになく難しそうな顔をして椅子に座っているのを見て、息を飲む。
何か、グレイシーに対して後ろめたいことがあるのだと直感した。
「ささ、そこに座って。飲み物は紅茶で良い? それともミルク?」
「紅茶で……お願いしますわ」
促されるまま向かいのソファに座り、身構える。しばらくとりとめのない会話をしたが、その内容はさっぱり頭に入って来ず、セシリアの報告が何かということばかりが気になっていた。そしてとうとう、彼女の口から打ち明けられる。
「実はね――いなくなっていた娘が見つかったの」
「………!」
しかもその娘は、ルセーネだという。
行方知れずだった王女の発見。それはずっと、グレイシーが恐れていたことだった。手に持っていたティーカップを滑り落とし、ぱりんと音を立てて割れる。
「まぁ大変。指を怪我しちゃうから、絶対触っちゃっだめよ?」
「……ですの?」
「え?」
「わたくしはもう……いらないですの?」
グレイシーの瞳に涙が滲む。
最も恐れていたのは、この人に見放されてしまうこと。セシリアがいなければ、今の自分はいない。きっと孤児院や修道院で、貧しい生活を強いられていたことだろう。
グレイシーにとっては、セシリアはひとりしかいない母親だから。
「グレイシー、泣かないでちょうだい。そうやってあなたが傷つくんじゃないかって……それが怖かったの」
「わたくしだって……ずっとずっと、怖かったですわ。いつか本物の王女が現れて、わたくしは捨てられてしまうのだと……」
「グレイシー……」
セシリアは悲しそうに眉をひそめて歩み寄った。
こちらをぎゅっと抱きしめる彼女。
「嫌ですわ……。誰にも取られたくありませんの。わたくしのたったひとりのお母様ですもの」
「……!」
グレイシーがセシリアのことを『お母様』と呼んだのは、初めてのことだった。血の繋がりもなく、孤児だった自分がそう呼ぶのはずっとおこがましいことだと思っていたから。
セシリアは目の奥を揺らし、グレイシーを抱き締める腕の力を強めた。
その力強さと、優しい温もりに、堰を切ったようにグレイシーはぼろぼろと泣き出す。
「馬鹿ね、捨てる訳ないじゃない! あなたがいなくなったら私はもう、生きていけないわ。絶対に手放さないわ。グレイシーは私の可愛い可愛い娘だもの」
「…………」
震える声を聞いて、セシリアも泣いているのだとわかった。
これまでひとりで抱えてきた不安が爆発し、嗚咽を漏らしながら泣いた。
セシリアは、こちらの涙を指で優しく拭いながら微笑みかける。その表情は、紛れもなく娘を愛する母親のものだった。
「だからね、無理にダニエルソン公爵との縁談にしがみつく必要はないのよ。あなたにはきっとまた良いご縁がやってくるし、もしそうならなくても、追い出したりしないから。あなたの居場所がどこにもなくなるなんてことはないの」
「……!」
「最初はね、グレイシーは公爵様のことを愛しているのだと思っていたわ。でもそうではないわよね。これを成功させなければ後はないと焦っていたんでしょう?」
グレイシーは苦笑する。
「お母様には、何もかもお見通しですわね」
ジョシュアを心から愛しているのはきっと、ルセーネの方だろう。懐いているだけかと思っていたが、夜会で倒れたジョシュアに縋るルセーネの表情を見て、彼を想っているのだと分かった。
(ルセーネさんには、悪いことをしてしまいましたわ)
自分の立場を守りたかったとはいえ、ルセーネをジョシュアから引き離してしまったことを反省する。
するとそのとき、扉がノックされ、侍女が焦ったような声で入室の許可を求めた。
セシリアはグレイシーにハンカチを握らせて、これで泣き顔を隠すようにと、自分は赤く腫らした目のまま、侍女を室内へと招き入れた。
「王妃様、王女様、大変です……!」
「あらあら、そんなに慌てでどうしたの?」
「ダニエルソン公爵様のことで……」
侍女の切羽詰まった様子に、グレイシーは息を飲む。
「――呪いの痣が、完全に消失したそうです!」
まさか、最悪の事態が起きてしまったのではないかと身構えていたが、嬉しい報告にほっと肩を撫で下ろす。
痣が消えたということは、呪いの本体である魔物が討伐されたのだろう。
「そして今回、超上級魔物の討伐で、最も功績を上げたのは――ルセーネという聖騎士だそうです」
「……そう」
誕生日会のときに、ジョシュアの傍にひっついていた、小さく幼さを残した少女を思い出す。あんなにか弱そうな見た目の彼女が愛の力で、ジョシュアを救ったのだ。
いつもへらへら、あっけらかんとしていて、その雰囲気や面立ちはセシリアに似ている。
初めて彼女を見たときから、なんとなくセシリアと似ていると思っていたが、ふたりは実の親子なのだ。似ているのも納得の話である。
ルセーネはジョシュアのことを慕っているようだったし、彼もまた目にかけているようだった。
一体ふたりは、どのような関係なのだろう。孤児と国随一の貴族。かけ離れた身分のふたりだが、何か恋よりも強い、特別な繋がりを感じた。
グレイシーはそっと椅子から立ち上がる。セシリアがこちらを見上げながら、ジョシュアの見舞いに行くのかと尋ねてきた。グレイシーは小さくうなずいて答える。
「それから、お詫びに。しつこく付きまとって散々迷惑をかけてしまいましたので。この縁談は、こちらから正式に白紙にすると……そうお伝えして参りますわ」
「そう。いってらっしゃい」
ようやくジョシュアの肩の荷も降りるというものだろう。
そしてセシリアは相変わらず、にこにこと柔和な笑みを湛えていた。