26.ありがとうを伝えたくて
自分が実は誘拐された王女だったこと、ルセーネを拐ったのは祖父かもしれないということ。
色々な情報がルセーネを混乱させたが、一旦全てを頭の片隅に追いやって、ジョシュアの部屋へ向かった。そこに、セシリアも付いてきてくれた。
案内されたのは、王宮の中でもひときわ贅を尽くした国賓室。大きな扉の前ではふたりの聖騎士が見張りをしていた。
「中へ通してちょうだい」
「御意」
セシリアの命令に、聖騎士ふたりは恭しく一礼し、中へと通してくれた。――部屋着のままセシリアの後ろに引っ付いている、みすぼらしい少女に奇異の目を投げかけつつ。
国賓室の大きな寝台に、ジョシュアは横たわっていた。その傍らの椅子にグレイシーが座っており、ジョシュアの額の汗をタオルで拭っている。
サイドテーブルの洗面器には、冷たい水が入れてある。グレイシーは入室したルセーネたちを振り向き、眉間に皺を寄せた。
「王妃様に……ルセーネさん? どうしてここに……」
「ルセーネさんがダニエルソン公爵のお見舞いに行きたいとおっしゃったの。グレイシー、悪いけれど、少しの間部屋を空けてくれる?」
セシリアは穏やかな口調で伝えるが、グレイシーの眉間のしわは濃くなる。彼女は首を横に振り、はっきりと拒絶の意を示した。
「お断りいたしますわ。わたくしが離れている間に、ジョシュア様の身に万が一のことがあったらと思うと……気が気ではありませんもの」
「あなたの気持ちは分かるわ。でもあなたの体も心配よ。このごろあまり寝ていないのでしょう? 少しは休んだ方が――」
「わたくしのことは構いませんわ! それよりも……その娘を、ジョシュア様に近づけたくはございません……!」
グレイシーはこちらを睨めつけて声を上げた。美しい顔に威圧が乗り、圧倒されたルセーネはたじろぐ。
「わたくしはこのお方の婚約者候補ですもの」
しかし、ジョシュアのことを想い、心配しているのはルセーネも同じだ。ここで引き下がる訳にはいかない。
「ならせめて、治療をさせてくれませんか? 私の魔力で、ジョシュア様の障りを小さくするんです! そうすれば少しは楽になるかもしれません」
「嫌ですわ」
「え……」
「このお方に、指一本触れないでくださいまし」
ルセーネの願いは、にべもなく切り捨てられてしまった。彼女の頑なな態度に、ルセーネとセシリアは顔を見合わせる。
グレイシーはジョシュアに、恋というよりも執着しているように見えた。
けれどもし、自分がグレイシーの立場なら、少しでも好きな人の苦痛を和らげる方法に縋っていたはず。
「王女様の愛情は……独りよがりですよ」
「……は?」
拳を固く握り締めて、グレイシーのことをキッと睨みつける。
「王女様は自分のことばっかり考えていらっしゃいます! だいたい、他の人たちだって、ジョシュア様のことを心配してるのにどうして会わせてあげないんですか!?」
「あなたにわたくしの何がお分かりになりますの!? わたくしはジョシュア様と結婚しなければ、後がないのですわ。他の誰にも渡す訳には参りませんのよ」
「そんなの知ったこっちゃないです! 今は苦しんでいるジョシュア様を楽にしてあげるべきです! 私に治療をさせてください!」
「だから……っ、あなたには任せられないと言っているでしょう!?」
むむ……とルセーネは頬を膨らませ、グレイシーに掴みかかる。彼女も負けじと、ルセーネの両頬をぐいぐいと引っ張ったりつねったりした。
「生意気な子……っ!」
「この分からず屋ーっ!」
ふたりの取っ組み合いに、セシリアはすっかり狼狽えている。
するとそのとき、寝台に横たわるジョシュアが、わずかに眉をしかめた。
「ん……」
「ジョシュア様……! お気づきになったのですね。ご気分はいかがですか――」
「ルセーネ」
目覚めたジョシュアは、グレイシーの呼びかけを無視して、ルセーネの名を口にした。
ゆっくりと頭をこちらに動かした彼の青い双眸と、視線が合う。頬はやつれているが、その眼差しの優しさに泣きそうになりながら駆け寄る。
「はい……ルセーネです。ジョシュア様」
「そんなに泣きそうな顔にするな。俺は平気だから」
彼は困ったように笑ったあと、半身を起こした。ジョシュアはグレイシーのことを見据え、申し訳なさそうに言った。
「王女。私の看病をして休んでいらっしゃらないのでしょう? もう十分です。あなたも休んでください」
「わたくしなら平気ですわ。ジョシュア様に甲斐甲斐しく尽くすのはわたくしだけです。ですからわたくしと結婚してくださいまし」
「……」
グレイシーは、ジョシュアの手を懇願するように握る。しかし彼はそれをそっと解き、代わりに真剣な表情を彼女に投げかけた。
「あなたがルセーネさんを愛していたとしても構いません。ですが、あなたの妻にわたくし以上にふさわしい者はございませんわ」
「嘘なんです」
「え……?」
「ルセーネは私の恋人ではありません。王女との縁談を断るために、彼女に芝居に付き合ってもらっていたんです」
グレイシーは困惑したように目を泳がせる。
ただルセーネは、こうして本当のことを打ち明けるのがいいと思った。変に小細工をせずに、真正面から向き合った方が、グレイシーのためになるし誠実だから。
「ずっと……どうしたらあなたを傷つけずに断れるか考えていました。ですがもはや、どんな形で拒んでも、あなたは傷つくのでしょう。だからはっきり申し上げます。私はあなたと結婚できません。あなたも、愛していない男ではなく、もっと特別な相手を探してください」
「…………っ」
はっきりと拒絶の意志を突き付けられたグレイシーは、逃げるように国賓室を飛び出して行った。その後ろを、セシリアが心配して追いかけて行った。
彼女たちが扉から出て行くのを見送った直後、ジョシュアの半身がよろめいたので、咄嗟に抱き支える。
「ジョシュア様、しっかり……っ」
「平気だ。すまないな」
彼はルセーネの手を上から宥めるように握る。
「魔力を、私の魔力を注いでいいですか?」
「ああ。頼む」
そっと手を伸ばして、彼の胸元に触れる。意識を研ぎ澄ますと、呪いは一週間前よりも拡大していた。
目を閉じて、彼の体内に魔力を注いでいく。身体を傷つけずに呪いだけを小さくするように心がけるが、時おり彼の口から呻き声が漏れる。
少し続けたところで、冷や汗を身体中に滲ませたジョシュアに腕を捕まれ、「もうそこまででいい」と制止された。
いつもはルセーネがやめようと言わなければじっと苦痛に耐えている彼が、自ら止めるということは、よほど具合が悪いのだろう。
「少し、苦痛が和らいだ。お前の魔力は、他のどの優秀な聖騎士の神力よりも心地がいい。それにお前が傍にいると――安心する」
「ならずっと、お傍にいます。絶対に離れたりしませんから……」
ジョシュアはクッションに背中を預けながら、小さく微笑む。
「私……っ、ジョシュア様のこと、絶対に救ってみせます。呪いをかけた魔物を倒して……!」
「お前が俺を助けようと必死になるのは、あのときの恩を感じているからか? ――生贄だったお前を救ったときの」
ルセーネは目を皿にして、ぴしゃりと固まった。ずっと、ジョシュアはルセーネが高塔の生贄だということに気づいていないと思っていたのに。
いつから、どうして気づいたのか。沢山の疑問が頭に浮かび、言葉にならない。
しばらくはくはくと唇を動かしたあと、掠れた声を絞り出す。
「いつ……気づいたんですか」
「――最初からだ。婚約破棄の夜会でお前の姿をひと目見たときには、気づいていた」
ルセーネの正体に気づいても、彼は気付かないふりをしていたのだと言う。
ルセーネは思わず、彼に抱きついていた。彼はこちらの頭を優しく撫でる。
「どうして私のことを助けて、騎士団にまで入れてくれたんですか……?」
「なぜか、お前のことを放っておけなかったんだ。自分でもよく分からない。ただ、騎士団でお前と過ごす中で、俺が励まされていたのは確かだ」
ルセーネは何もしていない。どうして、と首を傾げると、その疑問を見抜いたように彼が続ける。
「七年もの間、暗い塔の中に幽閉され、孤独を味わうなんて、普通じゃない。壮絶な経験だ。それなのにお前はどこまでもひたむきで、純粋だ。誰かの役に立ちたいと澄んだ目で話す君が――いつも眩しかった。お前は俺にとって、守りたいと思った特別な存在だ」
「ジョシュア様がそんな風に思ってくださっていたなんて、知りませんでした」
彼は代々優秀な聖騎士を輩出する格式ある名家に生まれ、画家になりたいという夢も早々に絶たれた。
ただ、自分に与えられた役目を全うするだけの日々を生きていたが、あるときあの塔に赴いて、生贄の少女が歌いながら窓の外を眺めている姿をひと目見たとき、ひどく心を打たれたという。
外の世界を焦がれるように見つめる少女が、健気で、いじらしくて、手を差し伸べずにはいられなかった。制約に縛られて生きる自分と重ねて。
「君はもう自由だ。呪いのことも、お前が責任を感じる必要はない。だから、やりたいようにやって、生きていくといい。困ったことがあればナジュを頼れ。鬱陶しいところはあるが、世話好きな奴だ。きっと力になってくれる」
彼はそう言って懐から例のブレスレットを取り出し、「お前にやろう」と言ってルセーネの細い手首に付けた。
ルセーネは彼から離れて立ち上がる。寝台で上半身だけ起こしているジョシュアを見下ろしながら、にこりと微笑む。
「私……今日はこれで帰ります。ゆっくり休んでくださいね」
「あ、ああ」
もう一度柔らかく微笑み、くるりと踵を返す。彼に背を向けた瞬間、ルセーネの表情から貼り付けていた笑顔が消える。
国賓室の扉を出たあと、ルセーネはぎゅうと両方の拳を握り締めた。
(やっぱり今度は、私が助ける番。止めたって無駄ですよ。ジョシュア様の呪いは、私が解いてみせますから)
恩というには、苛烈で、強い情がルセーネの中で膨らんでいた。
ジョシュアは、ルセーネのことが放っておけなくて、励まされていたと言っていたけれど、ルセーネも同じだ。娼館の借り部屋で、壁を埋め尽くすほどの絵を見たとき、その美しさに心が震え、彼を応援したくなった。
呪いを解いて、きっと彼にルセーネの絵を描いてもらおう。そう決意して、王宮を出るのであった。