穴
奇妙だ。いつからこんなところに穴があったのだろう。
もうこの部屋に引っ越して来てから二週間が経った。突然の辞令で北海道への異動を命じられたときはなぜ俺が左遷されなきゃいけないんだと思ったが、実際のところ単純に人手不足を補うためのものだとすぐにわかった。元々家族どころか恋人もいない身だったので、まあ会社にとっては都合のいい社員だったのだろう。
支店長代理としての仕事も悪くないし、数年後には課長への昇進と本社への華麗なるカムバックが約束されているのだから、それを楽しみにそこそこの仕事をしていれば良いのだ。「切磋琢磨」という面を被った以前の蹴落とし合いと比べれば随分楽というものだろう。出世コースは外れてしまったのかもしれないが別に野望家というわけでもない。安定した収入と地位で程々の人生を送れればそれで満足だ。
今日も数十枚の書類に判を押すだけの面白みに欠ける仕事を終え、ビルに入っているコンビニで適当な弁当を買って帰ってきた。この社宅はワンルームの味気ない部屋だが、布団と飯を食う机さえあれば十分だ。誰がいるわけでもないがドアを開けながらただいまと呟き、弁当をレンジに突っ込む。暇を持て余すというのもなかなか疲れる。くたびれた体をうーんと伸ばして、そのまま足を放り出して携帯をいじる。すぐにレンジが鳴り、どっこらせと立ち上がって弁当を取り出す。電子レンジにコンビニ弁当をかけると温まり方にかなりムラがあるから困ったものだ。端のおかずはほとんど冷たいままだというのに弁当の底は熱くて持てやしない。それに比べて業務用のレンジは全体が温まっているような気がする。ワット数の問題なのだろうか。高いワット数で一気に温めると均一に温まるのか。
惰性でYoutubeを開き、くだらないゲーム実況の動画を見ながら飯を食う。今日も磯辺揚げは冷たい。米は熱すぎるくらいに温まっている。どうしたものかと思いながら一気にかきこむと、喉に海苔が張り付いた。ゲホ、ゲホと咳をして、500mlの不味い緑茶で流し込む。まだまだ若いと思っていたが、30を超えるとやはり体はだんだん老化していくらしい。階段を登っただけで少し息が切れる時も最近はあるように思う。全く困ったものだ。
そんなこんなで安い飯を平らげ、座布団も引かずに床にそのまま座って携帯を見る。ああ、面白くない。東京に戻ったら流石にそろそろ恋人くらいは作るべきかもしれないなあと思いながらふと遠くの方を見ると、白い壁に一点、黒いシミのようなものがあることに気がついた。おかしいな、こんなところに汚れなんてあったのか。現状復帰だとかなんとか言われて退去の時に大金を取られるのも嫌だ。汚れは早いうちに掃除しておくのが吉だろう。渋々重い腰を上げ、台所から使い古した布巾を持ってくることにした。
だが、よく見ると何かおかしい。これは、シミではない。凹み、いや穴のような。違う、これは穴だ。小さな穴が空いている。なんだこれは。こんなものはなかったはずだ。おかしい。いつからこんなところに穴があったのだろう。直径は、1cm以上はあるだろうか。まるで誰かが意図的に開けたように綺麗な丸い穴だ。見落としていたのか。いや絶対にありえない。確かにこの部屋にいる時間よりもデスクに座っている時間の方が長いことは認める。しかし、部屋でダラダラと過ごした時間だってそれなりに長いはずだ。入居したときに汚れや傷は徹底的に調べた。こんなにもはっきりとした傷、もとい、穴があれば気がつかないはずはないだろう。一体、いつどのようにこの穴ができたのか見当もつかない。
穴の正体を見極めるため、俺はそれをじっくりと観察することにした。すると、まあ当然ではあるのだが、隣の部屋が見えた。まるっきり、全て。これじゃほとんど生活が筒抜けじゃないか。プライバシーのかけらもない。俺がいえたことじゃないが、それにしても殺風景な部屋だ。机しか家具が置いていない。こいつも俺と同じような赴任勢なんだろうか。いや、ここの支店に赴任しているのは俺だけしかいないはずだ。単にミニマリストか何かなのだろう。
そんな無粋なことを考えつつも、俺は違和感があることに気がついた。さっき俺が帰ってきたとき、隣の部屋は電気が消えていたはずだ。しかし今はついている。隣人が帰ってきたのか。いや、そんな物音はしなかった。集合住宅では廊下に響く足音がかなり響く。ましてや隣人であれば鍵を開ける音もこちらの部屋の中まで聞こえるというものだ。では、在宅であったのにも拘らず電気を消していたのか。飛んだ変人か、それとも早寝早起き週間でもやっているのか。いや、そんなことは大した問題ではない。もっと大きな違和感。そうだ。あの机に向かって座っている男。背中しか見えないが、あのジャケットは俺のスーツと同じ柄だ。そんな奴は見たことがない。それに机の位置も、形も、まるで俺と一緒じゃないか。それに、髪型も、、、。
ふと隣人が箸を置き、緑茶を飲み出した。それで、気がついた。いや、そんな、おかしなことがあるはずがない。ありえないんだ、この穴も、この部屋も!こいつは、俺だ。あの横顔。あの背格好。どう見ても俺自身じゃないか。ついさっきの俺をまるでリプレイしている。どう見てもそうだ。部屋はまるっきりこの部屋のコピーで、あいつは10分前の俺!!!つまり、あの部屋は10分前のこの部屋なのか。なんてこった。俺は頭がおかしくなったのだろうか。これは本当に現実なのだろうか。穴を指でなぞってみる。しかし、確かにあるのだ、穴が。俺の感覚器官はそれをしっかりと感じ取っているのだ。この指先も、この目も、穴が確かにここにあることを伝えているのだ。
だがやはり信じられない。現実性を確かめなければならない。自分が狂っていないことを確認しなければならない。そう思った俺は、とりあえずこの穴の存在を確かめることにした。穴。穴なのだから、向こう側に続いているはずだ。俺は机の上に放り投げたままの割り箸を手に取った。穴のサイズからして、もしこれが俺の幻覚でなければ通るはずだ。箸をゆっくりと穴に入れる。箸先が、壁に入っていく。入った。入ったぞ。箸を軽く手で押すと、まるで俺の疑念を嘲笑うかのようにぽとんと向こう側へ落ちた。ある、あるんだ。箸は向こう側へ落ちた。つまり穴は実際にあるのだ。どういうわけかわからないが、この穴は実在しているのだ。そしてあちら側の景色は、信じられないが認めないわけにはいかない、事実なのだ!
いや、穴の存在は確かめられたが、アレが現実だと言うにはいささか抵抗が残る。もし、現実だとしたら。ああ面倒くさがらず物理の講義も大学で受けておくべきだった。タイムスリップ?いや、ワームホールか?時空間の歪みが…ええい、わかるものか!俺に今できることは現状を確かに把握することだけだ。あちら側に10分前の俺が見える。穴のあちら側はこの部屋の過去を映し出している。今実際に俺の目が映し出されているものはそれなのだ。俺は今、時空を超越したものをこの穴を通して見ているのだ。ついにあちら側の俺も壁の穴に気が付き、覗き始めた。こうして俯瞰してみると全く滑稽だ。大の男が背中を丸め、壁に引っ付いて隣部屋を物色している。全く何をやっているというんだ。
ここで俺はまた不気味な気付きを得てしまった。俺は今、過去の俺が穴を覗いているところを、穴を覗きながら見ている。つまりあいつ、自分自身に向けて二人称を使うのはなかなか奇妙だが、あいつの背中側の穴からあいつを見ているのだ。ということは。もしかして、俺も見られていたのか。他ならない俺に、俺も覗かれていたのか。意志とは別のものに突き動かされ、俺は思い切り振り向いた。穴、また穴だ。反対側の壁にも穴がある。そして穴の下には一本の割り箸が落ちているじゃないか。つまり、もしや。俺は膝立ちのまま恐る恐る反対側の穴に近付いてみた。そして心の中にある恐怖を噛み潰して、穴をそろりと覗く。本当に、なんてこった。こちらにもやはり同じ部屋があった。
こちら側の俺もまた同じ格好をして、もう一つ向こうの部屋を覗いていた。いや、どうやら穴の中に指を突っ込もうとしているようだ。一体あいつは何をしようとしてるんだ。向こうが10分前なのだとしたら、こちらは10分後の俺なのか。そうだ、そうに違いない。じゃあ、この無数の部屋はどこまで続いているんだ。10分後、20分後、果てしなく向こうまで続いているとしたら。俺は未来を知ることができる。どこまでも先の未来を見ることができるじゃないか。もし、遠く向こう側の部屋からスポーツ新聞でも差し込んでもらえたら。明後日は競馬場だな。まあそんな妄想もこの部屋にいる俺も考えたのだろう。だからさっきからずっとあんなことをしているのか。こんな意味のわからない状況に置かれながらもやはり俺は俺らしい。
動きがあった。あちら側の俺が穴の中を凝視し始めたかと思うと、急に壁から飛び退いた。じっと目を凝らして見てみると、俺は何かに怯えているらしい。尻もちをついたままずりずりと机のほうへ下がっていく。そして机に背中をつけて、後ろ手に机の上をまさぐり回している。箸をつかんだ。なぜ箸を。箸を握ったまま、俺は立ち上がって玄関のほうへどたばたと走っていく。ちくしょう、何が起きているんだ。玄関の方はこの穴からじゃ見えない。十数秒経ってから、あたふたと慌てながら俺は部屋に戻ってきた。そして俺は鞄を拾い上げ逆さにして、中のものを全て床にぶちまけた。這いつくばって何かを探している。何を見たんだ。俺は向こう側の俺をよく観察しようともっと壁に張り付いた。向こう側の音はよく聞こえないが、「ない、ない!」といったような感じだ。かなり慌てている。さらに向こうの部屋で何か起こったらしい。一体、何が。
向こう側の俺がバッと顔を上げ、玄関の方を向いた。さっきまでの焦っているような表情は消え、今度はひどく怯えている。「来るな!やめてくれ!俺が何をしたって言うんだ!!」未来の俺がとてつもなく大きな声で叫んだのでこちらの部屋にも声が響いてきた。それで、やっとこの穴からも見えた。視界の端、誰だあれは。黒い革ジャンに身を包み、覆面をした男が歩いてきている。俺の部屋に知らない男が入ってきているのだ。それにあの右手に握られているものは、包丁じゃないのか。顔から血の気が引く感覚がした。俺が四つん這いで男から逃げようと机の方へ歩く。男はそれをゆっくりと追う。背中を、刺した!あちら側の俺が床に突っ伏す。その後頭部を掴み、男が俺を持ち上げた。そして、男がこちら側を向いた。包丁を壁に、いや違う、俺に向けている。この俺に向けているんだ。男がゆっくりと包丁を振りかぶる。まずい!咄嗟に俺は壁から飛び退いた。
やばい。やばいぞ。10分後にあの男がやってくる。いやもう10分も猶予はないかもしれない。8分、いや7分くらいか。まずい。俺は尻もちをついたままずりずりと後ろに下がった。何でもいい、何かないか。背中が机にゴンと当たる。俺は後ろ手に机の上をまさぐり、箸を手に取った。こんなものじゃどうにもならないのは頭ではわかっていたが、しかしそんな悠長に構えている暇はない。今はどうにかしてあの惨状を避けなければならない。身体が死にたくないと悲鳴を上げているのを感じる。ガタガタと足が震える。そうだ。この部屋から逃げ出してしまえばいい。この部屋から走れば5分もせずに交番まで到着するだろう。俺は急いで玄関に向かった。くそったれ、手が震えて上手く鍵が回らない。落ち着け、つまみを回すだけだ。体感としては数分だったが、俺は数秒かけてやっと鍵のつまみを回してドアを開けた。
ドアの向こうにあったのは、この部屋の玄関だった。意味がわからなかった。まるで鏡写しのように同じ部屋があった。そして、部屋の奥に誰かがあぐらをかいて座っているのが見えた。俺はそれが見えるや否やすぐにドアを閉めた。あの男は。革ジャンに覆面。あれは、俺を殺す男だ。そんな、なんで。どうなってるんだ。おかしい。こんなことがあるはずがない。今思えば初めからそうだったのだ。隣の部屋も俺の部屋で、俺がいる。そんなことありえないって思ったじゃないか。こんなこと起こりうるはずがないのだ。幻覚!そう、幻覚だ!現実であるはずがない。いやだがもしあの男が、やはり玄関を開けてこちら側へ入ってきて俺を殺そうとしているのだとしたら。数分後にその未来が待ち受けているのだとしたら。
俺は鞄の中をひっくり返した。何でもいい、武器になるもの。そんなものがビジネスバッグの中に入っているはずないが、探さずにはいられない。だめだ、ない、ない!何かないのか、何か!!!!
そして、玄関のドアノブが回る音がした。