鏡の向こうで
その鏡はお気に入りだ。
大事な大事な鏡だ。
だからいつも居る場所に飾っておくのだ。
ああ、今日も、あの子が写る。
そうしてあの子を見て、小さく笑った。
私の家の屋根裏部屋には、大きな姿見がある。重厚な額のついた巨大な鏡だ。
くすんで、汚れた、曇った鏡。私だけのもの。私はずっとその鏡を見ることが密かな趣味だった。
「何がそんなに楽しいの?」と母は言った。
「そんなに気に入ったのか?」と父は言った。
楽しいよ。とても楽しい。気に入ったよ。とても。
なぜ?
なぜかって?
何が写っているかといえば、ゆがんだ私が写っている。小柄で、けれど健康的で、とても可愛らしい私が写っている。でも、時々、本当に時々、違うものが映るのだ。
それは小さな病室だった。大きな窓があるが、カーテンが閉められていて、朝か夜かもわからない。電気が付いていることもあるし、付いていない時もある。部屋には大きなベッドが置いてあって、ベッドのそばにある小さな棚には、常に枯れた花が飾られていた。私の部屋よりも小さいが、とても清潔感のある白い病室。
それが見えることは、誰にも教えていない。だから、この鏡は、この鏡の向こうの世界は、私だけのもの。
ある日、そこに小さな少年が写っていた。
私は驚いた。だって、今まで誰もいないと思っていたのに、突然少年が鏡の向こうで生活をし始めたのだ。白いパジャマをきた小柄な少年。私よりも小さい子供だった。
私は毎日少年を眺めた。
毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、毎日
眺めた。
ずーっと、見ていた。
ずーっと、ずーっと。
いつも少年は同じパジャマで、いつも退屈そうにしていた。いつも一人だった。
私は彼を見るのが趣味になった。
朝、ご飯を食べたら屋根裏部屋に上がって、彼を見る。
昼、ご飯を食べたら屋根裏部屋に上がって、彼を見る。
夜。やはりご飯を食べたら屋根裏部屋に上がって、彼を見る。
少年は一人なのにころころと表情を変える。かわいいなぁ。そんなふうに思った。
彼を観察する日々は、ずっと続いた。半年は続いたと思う。
それは雨の日だった。
台風の日。そとはざぁざぁと雨の音と、ゴウゴウという風の音しかしない。
小さな屋根裏部屋には、その音ばかりが轟いている。
私はいつものように、夕食後その鏡を覗いていた。
少年はいつものようにベッドに腰掛けている。
その時、少年がベッドからするりと降りた。
そして私の方に近づいて――。少年は、私を見て指をさし、天使のような笑顔で言ったのだ。
『おねえさん、いつも僕をみてるよね』
私はひどく驚いた。飛び跳ねるように鏡から距離を取り、鏡を恐る恐る見つめれば、やはり少年が笑ってこちらを見ている。
驚くほど邪気のない、可愛らしい顔で見ているのだ。びっくりしたけれど、とても嬉しかった。
孤独な日々に、友達ができたみたいだった。
私は彼の問いに答えることにした。
「ええ、いつも、みてるわ」
『どうして見てるの』
「観察してるの」
『どうして?』
「面白いから」
『ふぅん』
そこで、少年は言葉を区切ると、不思議そうに首をかしげる。
私も思わず首をかしげた。
『おねえさんは、どうして鏡の中にいるの?』
「私が鏡の中にいる? いいえ、違うわ。君が鏡の中にいるのよ」
『そうなの? 僕が鏡の中にいるの? おねえさんからは、そう見えるの?』
「ええ。そう見える」
『そうなんだ……僕、鏡の中にいるんだね』
少年はなんだか嬉しそうに笑った。
それから思い出したように再び口を開く。
『そうだ。ねえ、知ってる?』
「――?」
『この世界はね、二つあるんだよ』
ああ、そんなことか、と私は思った。だって鏡の向こうに病室があるんだから、そんなこと知っている。
世界は二つある。”こっち”と”あっち”だ。男の子と話すことになったから、今は”こっち”と”そっち”。まぁどっちでもいいけれど、とにかく二つある。
「それがなに?」
『どっちが本物なんだろうね』
はたと、私は瞬いた。
どっちが本物?
「そんなの、私のいる方が本物よ」
『どうして?』
「どうしてって……」
そんなこと言われても、私が居るから。としか答えれない。
『お姉さん、僕をみてたんでしょ』
「ええ」
『ずっと、みてたんだよね』
「うん」
『あのね、僕もね』
『僕も見てたよ』
ぞわりと、鳥肌が立つ。巨大な何かが背後にいる気配に驚いて振り向くと、私を飲み込む闇が、そこにあった。
視界を闇が覆っている。私の体を包むように、屋根裏部屋を暗闇で閉じるように。私の背後に迫っていた。
「な……に?」
あの子を見る。
彼は、彼は笑っていた。いつもと変わらぬ邪気のない。やさしい笑顔でそこにいた。
だけど、何度瞬きをしても、何度首を左右に振ってみても、その笑顔は変わらない。
私の引きつった顔を見て、笑っている。
私は悲鳴をあげて鏡にすがりついた。鏡以外、もう闇に飲まれて居る。
「どう、どうして! 待って! いや! 待って! 待って!!」
闇は私の体を飲み込んで行く。生ぬるい液体が絡みつくように私の体は自由を失っていく。
振り向けば、闇の向こうに何かが見えた。
「ひっ!」
ぐわっと開いた、それは穴だ。暗い暗い、落とし穴のような、ブラックホールのような穴。
穴の入り口には、ずらりと並んだ、あれは――歯。
ぎっしりと、穴の入り口を埋め尽くすようにくすんだ色の歯が並んでいる。はぁ、と音を立てて、それは何か息を吐いた。
生々しい舌が、だらりと歯を撫でて、そこから垂れるぬめりけのある液体はポタリと床に落ちる。それを闇が覆い隠した。
「い、いや、嫌ぁ!!!」
引きずり込まれる。足が、足が動かない!。
誰か! 誰か! お父さん! お母さん!
視界が闇に溶ける間際、私は見た。
少年を見た。
少年が笑っている。
私を見て、楽しそうに、嬉しそうに笑っている。
『ばいばい』
少年の小さな唇が、そう動いたように見えた瞬間。私の顔を闇が飲み込んだ。
――私は。
ねっとりとした何かに飲み込まれる。
――私は。
重たい何かが私の体の自由を奪う。
――わたしは。
息ができない。何も見えない。何も聞こえない。何も考えられない。
何も。何も。
ああ、私は――。
――私、私、わたしは、わたし、は、わた、わ、た、し、わ、た……し…………わた…………し。
ゴキリ、グチャリ、と音がした――気がした。
小さな笑い声が病室にこだまする。
少年は笑う。笑う。
呪いの鏡を抱えて笑う。
哀れなおねえさんを想って笑う。
綺麗にならんだ歯を見せて、笑う。
笑いながら思うのだ。
次のターゲットは、だぁれ?




