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狼の遠吠えは、確実に近くになっていた。
最初のころは、かなり遠くから、それこそ、山の向こうや、反対側から聞こえていたのであるが、いつしか、それはすぐそばの林から聞こえてくるような気がするほどの近くに感じられた。その恐怖は、いつしか、マサヨシノ足を速め、雪の上を走るように駆けていた。
が、土の上を走るのと、雪の上では勝手が違う。
思うように走れず、狼の遠吠えは近づいてくる一方だ。
「あっ!」
ふと、後ろが気になって、軽率に振り向いてしまったためか、体勢が崩れて倒れてしまった。口の中に雪が入る。
体を起こした時、遠吠えではなく、吠え声が聞こえた。
獲物を見つけた狼特有の声だ。
どんな生き物でも獲物を見つけた時、独特の反応を見せる。静かに獲物に近づくものもあるが、狼は違う。群れで狩りをするからには、意思疎通を図る。
囲まれたら勝ち目はない。
慌てて立ち上がり、走り出す。
が、いくらか走って、ついに森を抜けたときだ。
ほぼ、隣の茂みから狼がひょいと飛び出てきた。その眼は爛々と輝き、マサヨシを見ていた。マサヨシの前に躍り出たときでさえも、狼はその目線をマサヨシから外すことがない。獲物を狩る目だ。飢えている生き物の目だ。
さらに、近くの茂みからガサガサと音を立てて、数匹の狼が現れた。そのどれも、一定の間隔を置いて、マサヨシの周りを囲んでいる。つい、落ちていた枝を手に取るが、なんと頼りない事か。が、狼は襲ってはこなかった。
グルグルと、一定の距離を保っている。
が、本心では襲いたくて仕方ないという様子であるのはわかった。
白い息を吐き出す口から、涎がだらりと垂れている。
飢えているのだ。
今、彼らは、かろうじて残っている理性や、品位とも呼べるものにより、襲わないでいるのだ。
「ほう。これは、大きい獲物を見つけたな」
ゾクリ、と一際、背筋をなぞるような声が聞こえ、つい、そちらへと目をやった。
狼だ。特別、大きい個体だ。灰色の美しい毛並みに、歴戦の証か、額には星形の傷跡がある。
間違いなく群れのリーダーであると感じし、それは正しい。
狼は群れで狩りをする生き物だ。そして、それは食事の時にも応用される。彼らは基本的に群れが価値観になるし獲物を仕留めるのはリーダーの役目であるり、獲物にまず一口目をかぶりつくのは、リーダーの役目であり、特権である。
そして、それこそが、狼の品位であり、理性だ。
「狼が喋ってる」
ついぞ、頭の片隅に追いやっていたい疑問を口にする。
狼はしゅべらない。
そういう常識が頭から抜けているほどに、追い詰められていた。
「我々の言葉がわかるのか」
額に星のある群れのリーダーが、驚きもせずに、言った。
くんと鼻を鳴らすと、納得したように喉を鳴らす。
「なるほど、まじないを受けているな。狼避けの。もっとも、あれは嘘だ」
「嘘だと」
「そうだ。狼避けなんて、バカバカしい。狼と話せるようになるまじないだ。話して見逃してもらえることを願うわけだ」「なら、見逃してもらえるか」
「無理だ」
群れのリーダーが、とんと一歩、前に出た。
「我々は飢えている。お前たちも飢えているだろう」
「それは」
「この大雪で、獲物はとれない。飢えているからには、お前を逃すわけにはいかない」
狼がさらに間を詰める。合わせて、他の狼も輪を狭まる。
逃げようにも、逃げられない。
「待て。待ってくれ」
せめて、話を引き延ばそうと、そうすれば、少しでも生き延びれられると考えて、手を差し出した。
が、狼は一歩足を進める。
「俺は雪の女王に会いに行く。会いに行って、冬を終わらせる」
「そんな四方山話、信じられるか」
「ここを見逃せば、餌に困らない夏がやってくる」
「今、飢えているのだ」
「今は、堪えてほしい」
「それは無理だ」
狼はばっさりと切り捨てた。
それは当然だ。今の飯と、明日の飯を天秤にかけたとき、今の飯を捨てることはできない。
群れのリーダーとしての役目、生き物としての役目がある。
だから、こそ、群れのリーダーとしての役目を果たすために、狼は飛び掛かってきた。
その牙から逃れるために、枝を振り回す。幸いにも、その枝を避けるので、狼は噛み付いてこなかった。しかし、振り回したその枝の先を、別の狼が噛み付いて、マサヨシの手から枝を奪い取った。そうなると、マサヨシには武器がもうない。
素手で、狼に立ち向かえることはできない。
狼が数匹、飛び掛かってきた。転がって避けるが、その転がった先に、狼がまたやってくる。
そして、ついに、狼に組み伏せられてしまった。
リーダー狼のその牙と生暖かい唾液。吐息が、首筋にかかる。
もう、ここで終わるのか。
思いながら、最後の時を迎える、悔しさで雪を掴んだ。
その時だった。
「おうおうおう、狼ども」
雷鳴を鳴り響かせながら、誰かの声が聞こえた。
ぱっと空へと目線をやれば、何かが空からのたうち回りながら、降りてくる。
みれば、それは翼のない大蛇、オーイシである。
「とっとと、退きやがれ」
その声とともに、雷がピカリ、光を放ち、すぐ近くの木の枝に落ちた。
たまらず、狼たちは吠えながら、飛び退いて、散る。
二度、三度、雷があたりに落ちたとき、オーイシはマサヨシの近くへと降りてきていた。
「ははは、人の子、マサヨシよ。久しいな」
「久しいって、まだ、一日経ってないぞ」
「おかげで、助かったのだから、幸いと言ってくれ」
オーイシが快活に笑う中、マサヨシは立ち上がる。首には歯型が残っている。
そして、ふいに浮かび上がってきた疑問が、口に出る。
「どうして、やってきたんだ」
「何、興味深かったからな。お前が雪の女王に会いに行けるか。それに付き合ってやろうと思ってな」
「なんだよそれ、でも、助かった」
立ちあがり、礼を述べる。
オーイシはぱたりと尻尾を地面へと叩きつけ、じろりと狼の群れを見る。
狼たちは分が悪いと判断したのか、じりじりと下がっていく。
そして、現れたときと同じように、すっと茂みに飛び込むと、姿を消した。
「哀れだな。餌がないというのは」
「仕方ない。この雪だ。獲物がないというのは、飢えというのはそういうものだ」
「この森を抜けるのに、歩いていれば、同じような目に合う。ほれ、背に乗れ」
オーイシはそういうと、ずいと背中を下ろした。
その背中にマサヨシは跨り乗る。鱗の手触りは、非常に滑々としているが、しっかりと内腿で挟めば落ちることはなさそうである。
ふわりと浮き上がりそうになった時、慌てて、荷物から干し肉を取り出した。
偽善的ではある。しかし、彼らの気持ちもわかる。飢えに植えているからには、獲物が何であれ襲い掛からずにはいられない。本来であれば、人間なんて襲わなくていいものを、襲っているのは、全て飢餓が、そして、それを引き起こした冬の雪が原因なのだ。
マサヨシを背に乗せたオーイシが飛び立つ。
その後には、干し肉がいくつか残されていた。
ぶっちゃけ、サブタイトルが面倒くさい