僻みへの裏切り
「それでうちの孫がもう、可愛くて……」
1時間目の授業が始まり、開始から十五分ほど経過していた。
教卓の前では定年退職間近のおじいちゃんが授業を放って、世間話(というか孫の自慢話)に花を咲かせていた。
肝心の生徒たちは、机の下で携帯端末を隠れて見ている者、友達と放課後の予定を話し合っている者、真面目な者の一部を除いて授業を真剣に受けている人はいない。
ま、そんな僕も結局は同じ系統の人間なわけで。
この時間は有意義に使わないと勿体ない――。
机に顔を突っ伏し、一見、寝ているように見える姿勢を作り、
本来の目的である、右斜め前の席に目線を向ける。
後ろ姿を見るに、その様子はなにやら必死にノートを取っている様子であった。
――今日も深沢は真面目だなあ。
そう、何を隠そう僕、瀬崎翔は深沢愛梨に恋をしているのだ。
純粋無垢な心。男子生徒からも定評がある少し幼げで可愛げな顔立ち。だがその反面、時々、可憐ともいえる一面も魅せる彼女。一体いままでどれだけの男子生徒の心をわしづかみにしてきたのかは定かではない。
そんな憧れの女性ともいえる存在を、斜め後ろからこっそりと覗き見できるとは、なんと贅沢な席だろうか。人生の中で初めて自分の苗字に感謝した瞬間だ。瀬崎万歳。
そんな授業中の唯一の癒しタイムに浸っていると、いきなり左肩をトントンと何者かに合図されるように優しく叩かれる。
「ん、なんだよ?」
盗撮ならぬ盗視観察を妨害され、ついぶっきらぼうに呼ばれた方に左側へ顔を上げる。
「あ、ごめん」
そこには少し困った表情の彼女、神坂美成子が申し訳なさそうにこちらを見ていた。
「いや、こちらこそ……」
神坂の様子を見ると、なにやら話したげな素振りをしていた。
その様子と態度の変化からするに、用件の内容は容易に想像がつくものだった。
「で、何か用か? 昨日のことなら誰かに言いふらすようなことはしないぞ」
簡潔に話を終わらせたかったため、即座に核心に触れる。
「……!」
それを聞いた彼女は空気が変わり、迎合するのをやめたかのように顔つきを変え始め、
「へー……。私はてっきり、屋上か校舎裏に呼び出されて脅されるものかと」
あの冷たい眼差しで彼女なりのジョークを言う。
「というか普通に僕の印象悪くない?」
「そりゃ、あんなこといきなり言われたらね……私、まだ心の準備が……」
「照れる素振りを見せるんじゃない。そんな大したこと言ってないだろ」
僕にとっては重要なことだったが、彼女にとっては一ファンの暴走劇……。くらいとしか捉えていないはずだ。
もちろん、昨日のアレはそういう下心ありきの意味で言ったわけじゃないぞ。
「本当にゴムのこと、言わないんだね?」
「ああ、特に言ってメリットはないしな」
「本当に? 自分のオ〇ニー合計回数に誓って言える?」
「ああ、確かやり始めたのは一昨年だから……ってなんでそこに括りつけるんだよ! 回数数えちゃうところだったよ!」
「なるほど……いまどきの男子高校生の自慰行為はその時期なんだね……」
「恥ずかしいからやめて⁉」
なんでみんな僕の性事情を聞きたがるのだろうか。もしや今年のトレンドですか?
「でも本当に? 君、親に誓って言える?」
「親? 親はいないから君自身に誓うよ」
そこは神とかじゃないのか。
「そうか、それはごめん。でも、それなら……」
と彼女は顔を正面に向け、誠実な面持ちをしながら、
「君を信じてみる」
普通じゃ言えない気恥しいことをなんなくと、言ってきた。
面と向かって言われ、聞いているこっちが小っ恥ずかしくなってくる。
視線を右に逸らしながらも、なんとか平常心を意識し、口を動かす。
「ああ、あんたの一ファンを信じてみろよ」
「そう。でも……君は、理由を聞かないの?」
その理由はコンドーム購入のことか? それとも歌手活動についてのことか?
僕は君に聞きたいことは死ぬほどある。
でも、それを聞くのは――。
「それぞれのプライベートがあるのは普通だろ? 個人の尊重は守りたい主義なんだよ」
お門違いというものだ。
そもそも、僕は過去に神坂水名子の歌に救われた一人だ。
だから力になれることがあるならなにかしてあげたいと思った。
ただ、それだけだ。
「ありがとう。助かるよ……そういえば君の名前は?」
「今更かよ。……僕は瀬崎翔、翔はかけるって読むから間違えんなよ?」
「わかった。ありがとう翔」
「お、おう」
いきなり呼び捨てかよ。
今はこんな風に平然と話しているが、きっと彼女とは話す機会も減っていくのだろう。
過去の瀬崎翔の噂を知り、距離を取られ、クラスの中のいわゆるワイワイ系の人たちとつるんで残り一年の高校生活を満喫するのだろう。
そう思っていた。
それならそれでいい、とも思っていた。
しかし、僕の軽率な予想とは裏腹に意想外の出来事が起きる。
※ ※ ※
「神坂さん、このアクセどう? めちゃ可愛くね?」
「うん……いいと思う」
一時間目が終わった休み時間、神坂美成子の席の周りは人だかりでいっぱいになった。
みんながみんな、一世を風靡した歌手、神坂水名子と交流を深めたいと思っているのだ。
「いいよね~。じゃあさ、このピアスどう? マイブーム的に今、超キテると思うんだけどお」
「それもいいと思うよ」
「え、神坂さん「いい」以外に褒められないの? バリュエーション少なくてウケる」
とは言いつつ、怪訝そうな表情を見せている。
その表情からは明らかに反応が悪くなっていることが手に取るように分かる。
「まあまあ仲良くやろうよ、まだ神坂さんも転校してきて初日だからいろいろ慣れてないんだよ」
いけ好かない爽やか系男子みたいなやつが間に入る。※解釈には私情が含まれます。
「そうだよー、いろいろ戸惑ってることとかあると思うし」
「まあそうかもだけど……」
「そこで、親睦を深めるために今度一緒に合コンでもどうかな?」
それ親睦じゃなくて別のものを深めようとしてない? 食事とかじゃなくてまるっきり合コンって単語出しちゃう辺り今の高校生は積極的ですねえ……。あ、僕も高校生か。
だが、コンドームの件もあるので神坂がこの話に乗るかは僕自身、気になっていた。
「いいじゃんそれ! もちろん神坂さんもいいよね⁉」
見極めさせてもらうぞ、神坂。
「…………」
神坂は黙り込んだままだ。
「ねえ、神坂さん話聞いてる⁉」
「……ああ、ごめん。あまりにも欲丸出しの提案が出たからつい呆れてしまって……ね?」
彼女は卑しめるようにその言葉を口にした。
「…………は?」
まるで時が止まっているような沈黙が流れる。
否定する可能性は考慮していたが、ここまで言うとは思っていなかった。
これがきっかけだった。
僕の主観的な憶測、いやそれに似た決めつけではあるが、彼女、神坂美成子は冷酷な言葉で人を罵倒する毒舌女だったのだ。
その場は慌てて駆け付けて仲介に入った委員長のおかげでなんとか、どうにかなったが、転校初日の人気は嘘のようにその日を境とし、日がたつごとに彼女の周りには人が寄り付かなくなっていった。
今回で回想終了です。