第8話 『図ってない初売上』
リビングから続く扉を抜けると店舗スペースになる。
両社を繋ぐフローリングの廊下が途中で一段下がって石張りになって居るので、境目は分かりやすい。
ただ手負いのアキトにとっては、その僅か数十センチの高低差でもかなりしんどい。
「――おやおや、どちら様で?」
辛うじて歩行可能な足を引きずりながら向かった店先で、目の前の白髪の老婆が首を傾げる。
チェック柄のもんぺを履いて頭には手ぬぐいの様な頭巾を巻き付けている姿。90度近く曲がった腰に手を当てながら、心なしかプルプルと全身が震えている。
「そっちこそ」と言うセリフはとりあえず引っ込め、アキトは頭をポリポリ齧りながら、
「すいませんね、いま店主不在なんですよ。お届け物なら預かりますが」
――老人になったらこんな感じなのか。
大分先にあろう自身の未来を案じ始めるが、手をつきつつ壁伝いに店舗スペースへ出ると、まず目に入ってくるのは木製のカウンター。
さすがに棒立ちはつらかったので、アキトは老婆に「すいません、ちょっと足ケガしてるもんで」と断ってから、カウンターに備え付けている椅子を引いて着席した。
面積は奥に続いているリビングと同じ位で、間隔の狭い両壁に木製棚があるだけのシンプルな間取り。
もと居た世界の一般的な店舗の様に、外からでも中の様子を覗けるガラス張りになっておらず、店内に入らない限り外から直接商品を見る事は叶わない構造になっている。
四段になってる棚に商品は陳列されてなかったし、そんな中で入店してきた老婆も手ぶらなので、何かを輸送してきた訳でもなさそうだった。
ますます目の前の老婆の意図が分からなくなったのか、
「昼には帰ってくるみたいなんで、申し訳ないですけど出直しいただけますかね?」
「ほっほっほ、見ない顔だねぇ。しかも見るからに怪しい。泥棒さんかい?」
冗談なのか痴呆なのかは分からないがそんな事を老婆は述べると、口に手を当て上品に笑う。
それを前にアキトは引きつった顔をしながら「いやいや」と手のひらを左右に振ると、
「怪しいモンじゃありませんって。単に店主の知り合いってだけです」
「ほぉー、レミィちゃんも、ついに男が出来たんだねぇ。もうちょっと金持ってそうな顔した男の方が良かったかと思うけど……まー、恋ってのは人を盲目にするからねぇ」
昨日もあのオカマ男――レーベンもアキトの容姿に駄目出しをしてきたのだが、こうして一般人にも自身の特徴を蔑まれるあたり、認めたくもなかったが『さもありなん』な事実といった所か。
確かにレミィは超を付けて良い程の美人だったし、そんな彼女とアキトが引っ付くなんてクソの一輪の可憐な花をぶっ指してるにも等しいとはアキトも思う所。
「パンが買いたいんだけどねぇ。味の種類はは別に気にしないし、有る分だけで結構だよ」
どうしたものかと反論すら億劫になるアキトは渋い表情を浮かべたまま、口角を片方だけ吊り上げて愛想笑いする中、
「なので、さっき言った通りレミィは不在なんですよ。午後にもう一回来てもらわないと――」
「いやぁ、孫がお昼ご飯を急かすもんでねぇ。孫の両親も丁度不在なんだよ。さすがにこの歳になるとキッチンの高さすら届かない様になってねぇ、かと言って他の料理も重くて持ち運べないし……」
老婆はゆっくりとした口調でアキトの説明を遮りつつ自身の状況を述べると、分かりやすく眉をひそめて「困った」と言い出す始末。
孫を引き合いに出すか。
確かに床に落し物でもしたかと言うくらい曲がった姿勢では厨房に入るなど敵わないだろうし、小刻みに震えている足はふとした拍子に転んでそのまま他界されてしまいそうで怖い。
「売りもんがどこにあるか分からない中で売れって言われてもなぁ……。お婆さん、何個位いるの?」
「ほっほっほ、そうだねぇ、最近孫が食べ盛りだから、5個位は買って帰ろうかねぇ」
いつも食い切れる量の倍以上は買ってくるお婆ちゃん『あるある』。アキトも祖父母に可愛がられて育ったので、自身の経験から老婆の孫の昼下がりの辛さを案ずるが、
「それにしてもこの店は茶の一つもでないのかぃ? ……ほんと、気の利かない男だねぇ。レミィちゃんだったらアタシが来る前から既に淹れて待ってくれてるよ」
「……姑かい」
またしても理不尽に刺さる愚痴にアキトは感慨を漏らし、カウンターに手をつきながら辺りをキョロキョロと見回す。
陳列棚は何回見ても空のまま。
他に何が有るかと言ったら自身の目の前にあるカウンターと、先ほど渡った時は暗くて視線から漏れたかもしれないが壁の一部が可動する様になっているのに気づく。
それが段差を超えた少し先に遭った事で一瞬血の気が引くのを感じるが、明らかにその挙動に気づいた老婆が、
「そういやぁ、レミィちゃんはいつも廊下の扉の中から出て来てたねぇ。そこが厨房だとかも言ってたねぇ。まったく、レミィちゃんの家に居座ってる癖に、それすら分からないのかい?」
「はいはい。取ってくれば良いでしょ、取ってくれば。すぐ行ってくるんでちょっと待ってください」
アキトはまず最初にため息として大きく息を吐くと、その後深呼吸を数回。
意を決して痛む足を引きずり、まるで彼に試練を与えんばかりに「早くしてくれんかのぉ」と急かす老婆の声を背中にその扉を開ける。
殆ど壁と同化して初見殺しになってる扉を推すと、中は人一人通れる分の幅しかない廊下からは考えられない大きさの空間があった。
ほとんど店舗スペースに匹敵する広さで、まず目に入ってくるのは中央に走る鉄製の横長いテーブル。恐らく生地を伸ばしたりする為に使われるので有ろうが、両脇の壁は片やカマド、片や鉄製のラックが鎮座しており、
「おっ、結構作り置きしてんだな。皆同じ味に見えるけど……まっ、いっかな」
一枚につき10個ほどのパンが並べられたプレートが三枚。
その中からアキトが唯一腰を曲げずに済む高さに置かれているプレートを引き出す。
バー状になって居るラックには丁寧にトングが有り、アキトはそれを手に取るが、ここに来て紙袋の類が無い事に気づく。
「おーい、まだかねぇー。うちの孫が可愛いお腹を空かしてまってるんだよぉ。これで孫が哭きだしたらどう責任取ってくれるんだい?」
「あー、ちゃんとありましたから! すぐ行きます!……えーい、ままよ」
アキトは自分が着ているTシャツの一番下を捲り、その上にトングを使ってパンを載せていく。
海外のドラマとかで、儚い少女が同じ理屈でエプロンを捲って果実を運ぶ図は見た事あるが、大の大人――しかも歳の割には育った贅肉を外気に晒してそれを再現するのは、お世辞にも目に優しいものでは無かった。
老婆相手にそこまで気にすることも無いと思い、アキトはトングを手に持ったままカウンターの方へと向かった。
「ほら、5個ありましたよ。これでいいんですよね?」
幸いにもカウンターのすぐ目の付く所に茶色い紙袋が有った。
アキトは服の上に乗ったパンを保持しつつ、器用に片手だけで口元を開けパンを詰めていく。
一方で、大分腐りかけではあるが女性としての所論なのか、老婆はまじまじと露になるアキトの贅肉――もとい現代社会の腫瘤とも言える産物に「ほぉほぉ」と声を漏らし、
「全くだらしない身体だねぇ。こんな豚みたいな男にレミィちゃんが汚されると思うと涙が出てしまうわい」
「……精進します」
どこからともなく取り出したハンカチでホロホロと流す涙を拭く素振りをする老婆に対し、アキトは簡潔にそうとだけ返す。早くこの罵りから脱したいアキトはそそくさと紙袋を老婆に渡すと、
「よっこらせっと……さて、今日は何ウパーなんだい? これだけ買ったんだから、ちっとばかり負けてくれるとありがたいんだけどねぇ」
「あっ……そういえば値段しらねぇ……」
アキトに支えながらフラフラながら立ち上がる老婆は、茶色いがま口財布をモンペを取り出す。
そう言えば100万の時もでた問題だが、それを聞こうとしたレミィが不在だった事で結局貨幣価値が分からなかった。
価格設定と言うのは長期的な事業計画から導き出される重要なファクター。
原価・売上・客筋など諸々の思惑が詰まって設定されているそれを勝手に言い値で切り出すのはアキトも気が引けたのか、あからさまにお客様は神様と信じてやまない様な笑みを作り、
「ちなみに、まえ来た時はお幾らでした?」
こんな時だけは老婆を神扱いする不逞なアキトを前に、老婆は「はて」と首を傾げ、
「何ウパーだったかのぉ……。困ったのぅ。老けるとほんの数日前の事まで思い出せなくなるもんでぇ」
こんな時だけ老人ぶる老婆に一杯食われる。この下りをレミィが返ってくるまで続ける手もあったが、この遠くない未来に本当の仏様になるであろうご婦人には一刻も早くお帰り願いたい。
アキトは腕を組んで考えるが、またしても「タダって事でいいんかい」と追い打ちをかけてくる老婆に、
「――じゃあ、一個250で良いですよ。ちょっとおまけして1000って所でご満足ですかな、お客様?」
頭の中でふと浮かんで来た数字に商売文句を纏わせながら、まだ見ぬ貨幣のお釣りを出さないであろう数字を切り出した。