第7話 『異世界でのリスタート』
深く沈んだ意識の中で有ってもアキトは考えていた。
今の自分にすべき事は何なのか、と。
正直恩着せがましい関係は嫌いだった。
人との付き合いは基本は損得勘定が先行するし、その中で借りを作るというのは、相手に手綱を握られるのも同じ。
だからこそ彼は極力他人と関わらずに生きて来たし、これからもそうするつもりだった。そうすれば恩も貸しも起きないし、既成関係に起因する無駄な忖度をする手間が省ける。
昨日会った少女――レミィも同じ。10分もすれば今後一生出会う事はない刹那的な縁だった筈。
確かに綺麗な顔つきで魅力的な少女で有ったが、かと言って男女的な進展も期待してない。
まさに一期一会だけの縁。
それが今はどうだ。
自身とは全く関係のない借金の話に巻き込まれている。
結果論で言えばパン一つで自身の命が天秤にかけられている状態。
アキトにとっては大損害に他ならないが、レミィからしたら儲けものだろう。
パン一つで自身の返済に一役買ってくれる忠実な僕を手に入れたのだから。
大義名分がある以上、彼女が正しい――
そう考えるとアキトは無性な腹立たしさを覚える。
ただ、その中でもどこか言い難いムズムズしさが有った。
少女の見せた涙。
それに心を動かされたのも有るが、そんな安い理由じゃない。
己の直感が頭に訴えかけているのだ。
声を掻き消そうとも、耳を塞ごうともそれは聞こえてくる。
――彼女を救え、と
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「やっべ……予想以上に寝ちまったな。 今何時だろ」
ソファの上で横になって居たアキトは「ふぁ」と大きな欠伸を突きながら、掛かっている毛布を退けてゆっくりと半身を起こす。
大人3人が一列にかけるのが限界のソファ。横になっても足は延ばしきれない為、お世辞にも寝心地が良いとは言えなかったが、
「……ちゃんとした場所で寝れるなんと随分久しぶりに感じるな」
ネズミが屯する路地裏の片隅で寒風に晒されていた時と比較すれば、それこ30年物のアパートから最新のタワーマンションに引っ越したに匹敵する成り上がり。
体の随所に痛みは覚えつつも、それを路地裏の固い石畳ではなく、ソファがやさしく包み込む――つくづくレミィという少女には感謝しなければいけないと改めて心に思うが、
「結局、理由も何も聞けなかったな……さすがに初対面の人間にそこまで言う義理もないか」
レミィは自身の借金の理由を自分では話してくれなかったし、アキトもそれを詮索するつもりも無かったが、
「――100万か」
ソファに腰を掛けたままその単語を思い出し深く息を吐く。
一宿一飯の恩が有るとは言え、闇金の借金取りの連帯保証人。
自身の命を賭けて稼ぎ出さなければいけない金額の大きさに改めて鬱屈な気分になる。
金稼ぎの難しさが分かる社会人なのだし、時間制限付きで纏まった資金を捻出するなど考えるだけで億劫になる。
休息を一切省いて昼夜身を粉に働いたとしてもその実現に疑問が残る訳で、
「考えられるのはギャンブルで大儲けか。株とかFXでもいい気がするけど、いずれにせよ纏まった資金が必要だよな……果たして異世界にレバレッジなんてモンあんのかな」
――人を破滅させるのはレバレッジで有って、FXではない。
存外そのレバレッジで破産した手前、我ながら説得力があった。
「かと言って堅実に稼いで叩きだせるような数字でもねぇし……あー、どうしよう、そろそろ俺一人でも夜逃げしようかなぁ」
頭を抱えながらも、レミィの店がお世辞にもそんな人気店で無いのは、店主が外で売り歩いてる時点で察せられる。
持ち家かまでは分からないが、家賃という固定費が発生している以上、店舗に不在と言うのはそれを持て余しているのを意味しているのだから。
それ以外に根本的な所でも問題はあり、
「この世界の100万が日本円に換算してどれくらいかっていうのすら分かんねぇよ。これが米ドル相当とかだったらどうすんだ」
異世界への召喚四日目になるが、アキトはまだこの世界の経済に貢献――端的に言ってしまうとお金を使った事がないので、貨幣価値が一切分からないのだ。
貨幣の価値次第で100万という数字の重みが全然異なる物になるだろう。
昨日の夜レミィから聞いた話を鑑みれば、異世界でもちゃんとした市場機能があると推測できる。
であれば、自国の貨幣が紙くずになったり、金塊よりも希少になったりと、極端な状況にならぬよう国家がテコ入れする――即ち、物価の数字的にも元の世界と比べて極端には違わないと考えた方が自然だ。
それが車一台買える程度なのか、家一軒建てられるのか、はたまた城を立てられるかの違いこそあるが、
「パン一つ1万とかのハイパーインフレ環境だったらまだ希望は見いだせるが……ま、そこは現地の人に聞いた方が早いか」
自身が起床した事も兼ねて一声かけておいた方が良いかもしれない。
アキトはそう思ってからソファの背もたれを掴み、足や腰の痛みと抗いつつゆっくり立ち上がる。
彼が昨日寝床としたリビングは家屋の中でも一番奥に当たるので、小窓こそあれど向かいの建物に日光遮られている為、日中でも部屋中が仄暗い。
それが彼を何時間眠りに誘われたのか判断がつかない様になっていたのだが、
「……レミィちゃーん?」
恐らくは体内時計的にすでに昼時。
自分が起きてるくらいなのだから、レミィも起きている筈だと勝手な結論に行き着くと、昨日の夜少女が消えて行った階段。
その手すりに掴まりつつ、一番下から上の方に向かって控えめな声量で叫ぶ。
「おーい、レミィちゃーん? ……あれ? いないのかな」
再び叫ぶが、一階以上に暗い二階から帰ってくるの来るのは沈黙のみ。
足腰の痛みで階段を上がれないので確認しようがないのが歯がゆかったが、諦めてソファに戻ろうとしたと通り掛かったダイニングテーブルに置かれている物に気づく。
「……置き書きとはまた懐かしい。どれどれ――」
そこにあったのは白い小皿の上に置かれた二つのパン。
そして飛ばされない様にその皿を重しに敷かれた一枚の紙。
茶色く文庫本大の紙の上に書いてあったのは漢字ともカナとも似つかない。
少なくともアキトが元の世界で目に入れた事は無い記号の羅列だったが、何故か頭の中ではそれらの組み合わせが意味する内容をを理解できていた。
書き残されていたのは、レミィが既に街へ売り出しに出かけた事、昼までには帰ってくること、そして目の前のパンはとりあえず腹ごしらえにとの事。
時計が見当たらないので正確な時刻は分からないものの、レミィの姿が無いという事はまだ昼前という認識で間違いないだろう。
「案外ショートスリーパー続けてると、どれだけ疲れれても目が覚めちまうもんみたいだな」
結局昨日胃に入れたものは全部吐き出してしまった為、とりあえず腹ごしらえとばかりにアキトはダイニングの椅子を引き、テーブルに手をつきながらゆっくりと腰を下ろそうとするが、
「ごめんくださーい」
座面まであと10cmという所で、入り口――店頭の方から感覚的に若くない女性の声にアキトの動作は一瞬止まる。
「俺宛......じゃないよな、間違いなく」
異世界に知り合いなどいないとすぐに結論付け、居留守を決め込もうと決心したアキトはなお腰を鎮めようとするが、
「ごめんくださいなー?誰かおらんかねー?」
牽制を書けるように再度の問い合わせ。
口を尖らせつつも、良心の呵責に心が行ったり来たりする。
自分への訪問者で無い事は分かり切っているが、思い出されるは昨日の後悔。
闇金に絡まれて哭くラミィを前に何もできなかった。
だからこそ、今回は100万をキッチリ返済して『恩』に報おう。重さはこそ全然違うがアキトはそう決心していた。
『彼女を助ける』という心は自分の気分次第で左右される物じゃない――
「はーい、ちょっとお待ちください!」
心の片隅で『めんどくせぇ』と呟きながらも、アキトは呼びかけの声の持ち主に聞こえるよう言葉を投げかけた。
タナカ・アキト
職業:パン屋見習い
資産:0
所持品:タバコ、ライター(損傷につき点火不可)
借金:▲1,000,000 ウパー