第6話 『ある意味戻る、普通じゃない日常』
「痛っ!」
「あっ、すいません……」
生物にとってその身を守る巣穴に等しい『家屋』という存在に巡り合うのは、異世界に来て実に三日ぶり――先ほど零時を過ぎたので実に四日ぶりである。
質素な壁は所々黄ばんでおり、場所によっては壁紙が剥離して中身の骨組みが覗いている――壁の他にフローリングの床も同じような有様で、踏み込むとギシギシと不安にさせる様な劣化ぶりを発揮したりと、とても身を任せるに心細い箇所も多々ある。
この家屋が如何に相当な年月の雨風を凌いできた貫禄たるものを伺わせるが、その一室で、
「一通り目立つところは塗りましたけど……他に痛むところはありますか?」
カーゼの様な布切れを使って、アキトの背中に薬とレミィが称する謎の物体が塗りたくられる。
染み渡ると称するか、痛みにも快感にも似つかない――或いはそれらが同時に混ざり合った感覚に、
「うぐっ! き、効くぅううう!」
「あ、すいません!」
長い感嘆を挙げるが、まるで嘘の様に痛みが引いていくのもまた事実。
一方でそれでも場所が多すぎる上に、一つ一つの傷も浅くない為、回復が追い付かないのか、
「全身痛いって言ったらどうなる? ……と言うか未だに中身と言うか内臓部分が痛たくて、擦り傷の痛みが全部内側の痛みで上書きされてるのが現状」
「……すいません、としか言えませんね」
「あ、ごめん、別に君を攻め立ててる訳じゃないんだよ。恨むべきはあの憎っくき豚どもだ」
口服薬以外は通用しないだろうなと現代人に直感させる痛みをヒシヒシと感じさせながらも、アキトは弱弱しくその拳を握って打倒豚野郎の闘志を静かに燃やした。
店頭の奥にあるドアから入った住居区間のリビングスペース。
20畳ちょい位のその空間は広くなく、まず目に入ってくるのは四人が掛けられるダイニングテーブルと小さいキッチン。
基本的な機能こそ備わっているが、逆を言うとそれ以外はなにもない。
その傍らにはソファも備え付けてあり、アキトはまさにそこに腰を掛けていた。
「……あんまり『すいません』とか『ごめんなさい』って口にするもんじゃないと、俺は年長者としてアドバイスするぜ」
「え?」
「別に間違っている事に詫びを入れるのは正しいし、それが出来ない汚ぇ大人の方が多いが――あんまりしすぎると、重みをなくしちゃうぜ」
背中を背後に立つレミィへ向けながら、謝罪ばかり述べる彼女へサラッとさらなるフォローを掛ける。
出会ってから諸々2時間程経つのだろうが、数少ない会話の中でも彼女の謝罪に関する単語の使用率の高さ。指導も入れたくなるような過度な遜りを前に、
「ま、なんにせよ命が有っただけで万々歳だ。アレだけいたぶられて生きてるって、我ながら人間って不思議だよな。俺的には結果オーライかな」
「……もしかすると頭にも衝撃を受けてて、寝ている間に息を引き取ってしまうかもしれないので、何か不調が有ればすぐに言ってください」
「さり気なく患者の言い知れぬ恐怖心を煽る点、君は医者に全く向いてないかもしれないな」
目を細めながら夜も寝付けない不安に駆られるアキトに対し、ラミィは既にアキトがカウントするのも面倒になった謝罪を小さく述べる――ものの数秒前にそれを諫められたのを思い出したのか「あ」と小さい声が漏れると両手で口を覆う。
そんな可愛らしい仕草を眺めながら、アキトは内臓の痛みを抑えつつ小さく笑う。
ラミィに餓死寸前から救われたパンの施し。
そして、その代償とばかりに彼が死ぬ一歩手前までリンチに欠けられた事に対する救済処置――
アキトのいう所の結果オーライ。とどのつまり、寝泊まりする先を見つけたという点である。
縁は異なもの。味も有るかは今の所分からないが、経緯はどうあれ本当は数分で終わる筈の縁が再び繋がった事に対し、
「今更ながら、ありがとう。君が居なかったら多分死んでたよ」
アキトは口に出してその礼を改めて伝えると、
「……重かったでしょ、俺。なんとなく歩いてた様な記憶は有るんだけど、悪いけどよく思い出せない。確か路地裏を出て……大通りにでて……大きな教会みたいな所通って――」
酒で三次会辺りまで付き合わされた時の泥酔と似た意識混迷ぶりを振り返るが、大きな教会がある所でプツりと途絶える。
レミィは「その教会みたいのがギルド支部ですよ」と、一番最初『避難先』に指定した場所で有る事を告げると、
「タナカさんもご自分である程度は自重支えてくれてたので、あんまり苦では無かったです」
「いや、それでも女の子に俺みたいなデブを担がせちゃったのは流石に申し訳ないよ」
「私だって普段から25キロぐらいの小麦袋を二つくらい同時に担いでますから……小麦袋に足は生えてませんし」
手を左右に振りながら否定する。
彼女の謙遜の様な言葉の最後でアキトは妙な引っ掛かりを覚え、
「なるほど。……ん? 25キロが二つってことはごじゅっ――」
「単なる力比べだったら男の子にも負けない自信はありますよ!」
「いや、病み上がりだし遠慮しておくよ……」
レミィはアームカールを披露するも、アキトは引きつった顔で一番賢いと思われる選択肢を取った。
頭の中で瞬時に損得勘定で――もはや魔法の域に達しているかもしれないが、そんな妄想をついでに吹き飛ばす様にアキトは自分を嘲笑う様な鼻息をついた。
「あ、あれですよ」と壁際に積まれた大量の麻袋を指さす方向には、
「……俺は多分一袋担いだだけで腰が逝くな」
ロクな家具がないポツンとした部屋で相当な床面積を占めるそれ。
これを一人でこんな数を運び入れたのかと、迫る体の凋落に震えるアキトの額から思わず冷や汗が零れるも、
「なんでこんなに大量の小麦粉……流石に業務用としても多すぎるんじゃないの。 一袋簡単に見繕っただけでも数百キロは行くぞ、あれ」
アキトの指摘の通り、ピラミッド状に綺麗に詰まれた麻袋は既に子供の身長を超すくらいの高さは有している。
底辺だけで5袋――合計で15袋あるその重量たるや想像を絶する。先ほど歩いた際に出た板の金切り声も、恐らくすでに床全体が歪んでいる証拠である。
いずれ突拍子もなく轟音を立てフローリングを構成する板が数十枚纏めて割れるか、或いは抜けるか。なんにせよ足元に隠れている地面へと着地するのは時間の問題。
その質問にあからさまにラミィの顔がうなだれるのが見て取れた。
「――あえて言うなら、あの変な喋り方をした男の人……レーベンと呼ばれる方なんですけど、その人に付きまとわれる様になった理由、って所ですかね」
薄れ行く意識の中でも確かに聞こえた100万の借金と――アキト自身の命。
己の命が100万ごときとは甘んじても受け入れ難いが、果たして一週間でそれだけ稼げるかと問われても算出する材料が少なすぎる。
気が弱いし謝るのが趣味の様な優しい性格とは言え、オカマ男――レミィがレーベンと称する男に対し、彼女は異様なまでの恐怖を頂いていた。その根幹にある理由がなんなのか分からない限り、現状打破は難しいと考えるのが自然である。
「――それでも、私にはこの家を売れない理由があるんです」
何故か唐突に繰り出されるレミィの言葉。
普段からどこか自信なさげに消え入りそうな声とは対照的に、レーベンの前でも見せた毅然とした態度だった。