第3話 『涙の先に』
街道から洩れる光に照らされる可憐な姿は、絵画の一つに納めてしまっても良いくらい美しかった。
頬を流れた涙は、ただ無意識に零れ落ちてしまったというのが正しいだろう――アキトの指摘に少女は「え」と小さい感嘆を零し、改めてその目元に手をやると喫驚の表情を浮かべる。
少女は細く白い指先で涙を拭い、「あ、すいません。なんでもありませんよ」と、たどたどしい答えを返すと、
「……あ、そういえばどうしてこんな所に? 行き場がないなら冒険者ギルドに身を寄せるってできるのに」
「え? 冒険者ギルド? 何それ?」
「――あ、もしかして外国の方ですか?」
涙の詮索をさせまいと、少々強引に話題を切り替える。
気を逸らすという観点に置いて彼女の行動は正しく、見知らぬ単語を前に首を傾げるアキト。
この世界にも流れ者を受け入れてくれる社会保障制度が有ったのかと、彼は少女の涙の理由を忘却して考えに耽った。
どうも読み物のテンプレをなぞり「異世界にそんな現代的な物はない筈」と勝手に結論付けてしまった事が今になって悔やまれるが、
「あ、いや。そうなんだよ。色々あってここに流れ着いたんだけど……身内も知り合いも居ないし、お金も運悪く置いてきちゃったから、宿にも止まる事もできないし、もう散々」
肘を脇腹につけつつ両掌を宙に向ける、所謂「どうしようもない」ポーズをとるアキト。
少女はすっかり涙を戻し、今度は口元を隠しながらクスクスと笑うと、
「大変だったのですね。猶更手を差し伸べさせて貰えて良かったです。お客さんをもてなすのがここに住まう国民としての義務ですから」
即席で作った適当な理由に対しても優しい笑みで返してくる。
「ちなみにどこの方なんですか? その黒い髪と瞳、西の方じゃあんまり見かけないですけど……あ、顔つき的にジルヴァツの方ですか?それともフェリジアナ?」
「えっと、えーと、『ニホン』って所だけど、聞いた事ある?」
「ニホン?」
聞きなれぬ国名を記憶の中で辿っているのか、あごに手を置きながら「ニホン、ニホン」とぶつぶつ呟きながらしばらく考えるが、
「……すいません、ちょっと聞いた事無いです。もしかして人口が極端に少ない国でしょうか?」
「まー、極端に無いにせよ、どちらかと言うと多い方なんだけどなぁ」
人口≠知名度では無いだろうが、国土こそ小さいが経済大国の名前を知らないという回答。
そんな双方の認識の落差が間接的にここが異世界である所以にも繋がってくる。
自信の認識に対して確証を得たいが為に、今度はアキトの方から話題を振ると、
「もしかしると俺の居た世界って、この世界――」
キーワードを切り出そうとしたその瞬間だった。
「この世界とは違うかも」と続けようとした途端、饒舌な筈の言葉がピシャリと動きを止める。
「――! ――!」
まるで布を口の中に突っ込まれたかのよう。
痛みや痺れなどの症状は見当たらないし、舌はチョロチョロと右往左往動いているが、一向に言葉が発せられない。
何とか捻りだそうと試行錯誤して口をモゴモゴと動かすその光景――傍から見たら滑稽だったに違いない。
その様子を眺める少女が「大丈夫」ですかと心配そうに様子を伺うが、
「あ、いや。遠い東の国なんだ。そう、あんまり聞かないかもしれないね。俺、そこの出身」
舌だけが対象の金縛りの様な症状はふと消える。
途切れ途切れで拙い羅列で有ったが、アキトは思わず胸を撫でおろした。
――なるほど、元の世界に関する内容は禁句か。
よく小説でありがちな制限が降りかかりつつも、見た所人体に害はない様。
異様な事態に襲われているアキトを前に、少女は「そうですか」と何事もない事に安堵するような表情を浮かべ、
「早く食べ過ぎて具合悪くなってませんか?」
「いや、全然大丈夫。大丈夫……」
どこか不安そうな表情を浮かばせるアキトに引っかかりは感じつつも、簡潔に「そうですか」と返し、
「……空腹は収まりましたか?」
「ああ、本当に助かった。君が居なかったら明日か明後日辺りには、この路地裏が社会面を賑わせちまう所だった。――外国人、野垂れ死んで客死って具合にな」
強ちただの冗談に済まされないブラックジョークを前に、
「面白い方ですね。……そうなってしまえば、『片田舎の行楽地』と言われる街の名折れ。風評もただ下がり間違いなしです。貴方の様な異国のお客さんも寄って来なくなってしまうでしょうね」
口元を手で隠しつつ、細く先端へ近づくにつれてカールしていく金髪を揺らしながら笑う。
静かに二人の笑い声の合唱が路地裏で響く中、
「改めてありがとう。俺の名はタナカ。タナカ・アキト」
「――レミィ・イシュリスです。なんの力も持たない小娘ですが、貴方のお役にたてたので有れば幸いです」
手を差し伸べるアキトに、小さい笑いを引きずったままのレミィは、緩やかにその手を握り返す。
「ははは、お役にたったどころか、俺にとっての命の恩人だろうな」
異世界で初めて好意的に接してくる少女。
彼女の小さい手が無ければ今頃は、と思うとゾッとするが、アキトにとっての異世界で安息をつくにはまだやる事が多いらしい。
「……冒険者ギルドの受付で『社会支援が必要』といえば、例え海外の方でも対応してくれるはずです。勿論それなりの労働を対価としますが、基本的な衣食住は保証してくれる筈です。もしかしたらお国に帰れるよう手配してくれるかもしれません」
どこまでもお人よしそうなレミィは、彼が進むべき『道』を指し示してくれた。
前途多難な異世界生活を思い浮かべるアキトだったが、腹が膨れた事で、長く鎮火していた闘志にも燃料が投下されたのか、
「肉体労働は勘弁願いたいが、それもやむなしって所かな。まー、ここ数年で太りすぎたし、ダイエットかと思えば楽勝楽勝」
「ふふ、頑張ってください」
働かざる者食うべからず。努力せぬ物報われるべからず。
オーソドックスな言い回しに自己流の解釈を付け加えた左右の銘をアキトは心の中で叫び、拳を握って躓いてしまった異世界生活の新たな幕開けを心に誓う。
「貴方に神『ソレティアリア様』のご加護が有らんことを――」
そんなアキトの新たな門出を祝うが如く、両手を組んでから目を閉じて、彼への祝福を願った。
ローブに身を包んだ姿が、まるで修道衣に身を纏ったシスターかの様に思える異世界の少女、レミィ。無神論者のアキトだったが、この時ばかりは彼女の祈りをただ静かに受け入れていた。
――また会えたらいいな。
目を瞑りながらそんな事を考える。
出会って30分と経ってないであろうが、アキトの心の中で薄っすら芽吹いた親しさ。
少々名残惜しい気も合ったが、
「……こんな所で何してるんだーい、レミィちゃーん」
この世界の神は、そんなアキトの小さい願望を最悪の形で叶えてくれた。