第2話 『味覚は相対性理論』
「誰……?」
声を掛けてきた人物は大通り側を背にしている為か、街灯の光が逆光になって姿は良く見えない。
本能的に今すぐにでも走り去りたい衝動に駆られるが、アキトの頭の中ではそれを諫めるように『逃げるな』という考えを強く呈していた。
「あ、すいません。驚かせてしまいましたか?」
謂れの無いであろう謝罪を述べると、その人影がやがて正体が一人の少女である事に気づく。
「怪しいものではありません。安心してください。貴方をどうにかしようなんて思ってませんから」
自身を怪しくないと自称するほど怪しい奴は居ないだろうが、それを行動で否定する様に、幼げの残る顔には慈悲深いやさしい笑みを浮かべている。
妖精の様な端正な顔つきで、その中でも一際目を引くのが丸々とした蒼い瞳。
桃色の唇は薄く、大きな目の下には小さくもキャラの立っている泣きボクロ。
美人の要素を小さい顔の中に全部詰め込んだ様な少女は、
「お腹……空いているんですよね? これ、余り物ですけど良かったらどうですか?」
壁に寄りかかって座り込んでいるアキトの目の前に来ると、胸元に抱えている紙袋の中身を差し出す。
彼の認識が異世界と合致しているのであれば、それは変哲もない『パン』という食べ物で、
「これって……」
「ウチで焼いた物です。ちょっと冷めちゃってますが、まだ食べられますよ。味の方は大分落ちちゃってると思いますが……」
――知らない人から物を貰っちゃいけません。
生まれてから何百回と聞いた言い回しだが、空腹的で切羽詰まった状況の中、アキトの口内では彼の理性による制止を振り切って唾液がドバドバ分泌されていた。
「安心してください。毒なんて入ってませんよ」
威嚇する捨て猫の頭をやさしく撫でる様な魔性の一言。
タバコの禁断症状でもあるまいが、アキトはプルプルと震える手をゆっくりと差し伸べるが、本能に抑えつけられていた理性がここで蘇り、
「……お金は持ってないぞ。押し売りなんてされても俺には払う物なんか持ってないからな。かといっても臓器も売らんぞ!」
本能がまま伸びる右手を、理性が駆る左手で無理やり抑え込む。
そんな奇人然した動作を前に、少女はなぜか場面的には不相応に「すいません」と再び小さく頭を下げると、
「何もとりませんよ。さっきも言った通り、ただの餘り物ですから。――私は別に対価なんて求めていません」
紙袋を脇で挟みつつ、アキトの手を両手で握りこむ様にパンを渡した。
小さいその手は仄かに暖かく、元いた世界も含めて何年振りかと言う温もり。
いつの間にか震えていたアキトの両手は平静さを取り戻し、ようやく固い警戒が解かれたのか、微笑みながら黙って彼の様子を伺う少女に対し、
「……かたじけない!!!」
両手に収まったパンを、ただ本能のまま貪りついた。
見た目に違わず普通のパン。
味の方はと言うと水分が抜けきっているのかパサパサとした食感。決して作り立てでも無く冷え切って、キレの悪い歯ごたえだけを残す。
中身に餡や具材が入っている訳でも無く、かと言って生地に味がある訳でも無い。
ただ、評価というものはその置かれた外的環境によって左右される事が多いらしく、
「うめぇ……うめぇよ! なんでこんなうめぇものがこの世に存在するんだ!」
「ふふ、大げさですね。焼き立てはもっと美味しいんですよ」
「止まんねぇ……止まんねぇよ!」
一口、また一口。
最初は前歯でチビチビ齧る程度だったが、今では奥歯まで駆使するほどの大口を開けている。
夢中で口の中に入れたパンは欠片をポロポロとごぼしつつも、手品の様に一瞬でアキトの胃に収まる。
名残惜しそうに掌に残ったパンの欠片を口に運び、それすら無くなっても付着した匂いを文字通りペロペロ舐める。
もはや下品を通り越して、完全に獣のそれ。
久々の摂食行動に、最初は普段わがままな胃も「待ってました」とばかりに歓喜を挙げる。
次第に傲慢なその臓器は「もっとよこせ」とばかりにアキトの痛覚を締め付ける事で続きをねだるが、それを見越していたとばかりに、
「良かったです。本当にすごくお腹を空かしていたんですね。他にもありますから、良ければどうぞ」
「くっ! こんな幸せが会って良いのか……!」
再び聖女の様な慈悲深い笑みを覗かせ、チラリと覗く白い歯がその愛らしさに拍車をかけた。
――やはり美少女には笑顔が似合う。が、花より団子は古来からの事実。
少女がアキトの隣に腰を掛けて手に持っていた紙袋を置くや否や、彼はその太い手を突っ込んで野蛮人が村落を襲うが如く中身のパンを略奪していく。
「アンタ!誰だか知らねぇけどありがとう! 女神だぜ、アンタ! 本当は……本当は腹減っててどうにかなっちまう所だったんだ!」
アキトは両手でパンを持ち、交互に一口で食らいながら叫ぶと、
「どういたしまして」
少女は首を傾げながら綺麗な金髪を揺らす。
紙袋のパンが2個3個とアキトの腹の中に納まっていく中、空腹が多少は満たされた事からか頭も徐々に冷静さを取り戻す。
アキトは改めて自身を一常識のある大人として、自身の窮地に手を差し伸べてくれた少女に礼を述べる事が肝心。
そんな結論に至った彼は、ちいさく「あの」と切り出し視線を隣に座る少女の方へ向けた。
アキトはそれを前に当初思い浮かべていた話を切り替えると、
「――君、なんで泣いているの?」
パンを小さく齧りながら一筋の涙を流す彼女に対し、今度はアキトがその気遣いをやさしく投げかけた。
タナカ・アキト
職業:無職
資産:0
所持品:タバコ、ライター
借金:0