第一話 ネサラとルーファウス
「………いいのか?このままで」
「……何が」
ネサラはため息をついた。
「祝ってやりたかったんじゃないのか?弟の結婚」
「今更、彼の前に出ていけるとでも?らしくないことを言う」
ーーーらしくない。
確かにネサラ自身そう思った。
「……なんでかねぇ。お前みてるとさ、もっと器用に生きられないモンかなって、思うわけさ。どうしようもないんだろうけど」
ネサラの脳裏に、以前たった一度だけ見た、ルーファウスの涙がよぎった。
☆ ☆ ☆
あの時。
そう、ルシフェルが紅い月に、兄である彼を訪ねてきたときだ。
彼は、弟達を体よく追いやった後、どさりとソファーに横たわった。天井を睨み、右腕で両目を覆う。
逢いたかった。それと同時に逢いたくなかった。
ルシフェルを愛していた。たった一人の兄弟だった。両親が天界に行ってからは、たった一人の家族となった。
千年前の事を全て思い出したとき……あの時の誓いを実行するために、もう一度生を受けたと悟った。そしてその為に女性を愛さず、誓いのために一生を捧げると決めた。
けれどもそれは孤独だった。そんな自分にとって、慕ってくれる弟だけが救いだったのに。彼の、存在だけが。
「ーーーーっ」
彼が導士として聖戦士と共にいれば、光の当たるところに居られるだろうと思った。仲間達がいれば、自分のように孤独ではなくなる。そして、成長出来るだろう。例え自分がいなくとも。彼ならきっと、連れてきてくれるだろうと。聖戦士を、私の手が届くところまで。
けれどもそれは結局、私のエゴでしかない。彼の人生を勝手に決めて、利用したことに変わりはない。
「すまない……ルシフェル……」
ルーファウスは涙声で呟いた。
部屋の片隅で、気配を消して様子を伺っていたネサラは、彼を見て瞠目した。
「まったく……。弟一人の事が、そんなに大事かね……」
自分はさっきからこの部屋にいた。いつものように。それはルーファウスも知っているハズだった。
しかし彼にとってはいつも通りじゃなかったのだ。
いくら自分と彼の間柄が特別な物だとしても、また、いくら自分が虚空から目的物に現れる力を持って、非現実的にーーというより非・常識的に彼に会うのが毎回の事だとしても……。越えてはならない一線がある。
時天使にとって、ひとのプライバシーなど、有って無いような物である。故に、面白がって他人の秘密を土足で踏みにじる輩もいる。人間にとっては悪趣味と感じるだろうが、時天使として生を受けた者にとっては単なる遊び、それこそ趣味でしかない。
ネサラも別に悪趣味だとは思わない。が、そもそも他人の秘密を暴き、それを嘲笑ってあげるほど他人に関心を持っていないので、そんなことに時間を使う彼らの気がしれない。
もっとも、時天使には時間というものの制約はないのだが。
こんな風に、穏やかにではあるがはっきりと自分の中に入り込んで来るのが、全てスルーフという自分より360歳は若い、ひよこ同然の男の入れ知恵の賜物なのが気に食わない。
「気に食わない」と思うことが、これもまたスルーフの思う壺なのだから、自分は一生敵わないのだろう。ラファエルでもなく、ノエルでもなく、唯一自分を手のひらで転がせられる存在。
認めたくないから会いたくないが、まぁそういう存在が一人くらいいてもいいかなと思う。
元々ノエルに協力することになったのも、彼の補佐役のスルーフの手腕によるところが大きい。
そうして、偉大だった自分の母の。
きっと、自分が他人との一線を越えないのも。
自分は人のプライバシーなど興味はない。けれど詮索しないと決めていたわけではなかった。気まぐれに踏みにじった可能性は否定できない。少なくとも、あの時までは。
なのに。なぜ、こんなところで寝ている。………泣きながら。せめて自分の居ない時に寝ていれば、見なくて済んだものを。
ーーーなぜ、だと?
決まっている。わざわざ考えるまでもない。
ネサラは自嘲と共に自答した。
ルーファウスは自分の気配に気付かなかった事など一度もない。人前で感情を見せることも、自分にすら滅多にない。大抵、無関心・無表情を装うか、部屋に籠って出てこないことが多い。
それが、このザマだ。たった一人の弟が、彼を崩して壊してしまう。弟が帰るなり、俺の事を忘れて泣き寝入るくらいに。
「……………ったく。救われねーな。おまえもよ」
ネサラは部屋から毛布を出して彼にかけた。
『おまえも』と言ったネサラの脳裏には、ある人物の顔が浮かんでいた。
自分が殺した、偉大な母親の存在が。
☆ ☆ ☆
回想に浸っていたネサラは、びくりと身じろぎした。
(誰か来る)
直感的にそう感じ、神経を研ぎ澄ませる。宇宙天使達特有の先読みの力……。その中でも時天使の十八番とも言える能力だ。
(だが、嫌な感じはしない。むしろ………)
思案げに宙に浮いていた彼だったが、不意に笑みをこぼした。
「ま、俺がとやかく言うことじゃない。自分のケツは自分で拭くんだな」
そう言い残し、時の彼方へと消えた。
ーーールシフェルがその部屋を訪れたのは、その三時間後だった。
☆ ☆ ☆
突然妙にあっさりと立ち去ったネサラを、大方何か『視えた』のだろうと、さして気にも留めずにいたルーファウスだったが、その後気掛かりだった弟・ルシフェルの訪問に、動揺の色を隠せなかった。
「………やっぱ、驚くよな、フツー。俺も、正直来るか迷った」
ずいぶんと大人びた弟を、目を細めて見つめる。
「………来てくれて嬉しいよ。お茶でも淹れよう」
そんな兄の様子を見て、ルシフェルもホッとしたように妖精用の小さな椅子に腰かけた。
「………ずっと、兄さんの考えや気持ちを、考えていたんだ」
出した紅茶を一口飲んで、彼が言った。
「でも、やっぱりわからないんだよ。兄さんは隠してることが多すぎるから」
俯いたままの彼の言葉に、ルーファウスはぴくりと反応する。
「隠し事……?」
「こどもの頃、兄さんが女といるのを見たことがある。多分召喚獣なんだろうけど」
その時自分は寝ぼけていて、相手がどんな女だったとか、どんな話をしていたかなんてほとんど覚えていない。
ただ。
『フィリアを、目覚めさせなければ。そうでなければ、何故私自ら娘を封印したのかわからん』
その言葉だけは子供心に引っ掛かっていて。
「娘ってのは、千年前の……ノエルの娘ってことなんだろうけど。……結局、兄さんは何を考えてるわけ?」
「それは………」
さすがのルーファウスも言葉に詰まった。まさかあの会話を聞かれていたとは。
どうする?全て説明するか?いや、しかし。
「…………って聞こうと思ってたんだけど。もういいよ」
「?!」
弟の態度が急変する。真意を探るように彼を見つめていると、
「別に、兄さんみたいに難しく考えてるわけじゃない。兄さんはノエルと、ルーファウスとしての記憶や思考がある。ノエルの方を相手にしてもしょうがないと思っただけだよ。俺の兄さんはあくまでルーファウスの方だから」
「………ルシフェル」
弟は、こんな自分でも慕ってくれるのだろうか。何を考えてるかよくわからない兄を。
「とにかく、俺は兄さんとは今まで通りの付き合いをしていこうと思ってるから。そんなわけでさ、一つ頼みがあるんだけど」