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「あれ?美咲ちゃん、どうしたの?」
クラスの子は全員下校したと思っていたのに、通りすがりに覗いた1階のトイレに美咲がいた。
両側にトイレのある正面の窓近くにいた美咲がこちらを振り返ると、
「トイレしただけ」
「そう、もうみんな下校しちゃったよ。美咲ちゃんもトイレ済んだら帰りなさいね」
それに頷いた美咲は、また窓の方向に目をやり、その顔は一瞬上を向いたような気がした。
美咲が私の横を通り過ぎようとしたその時、手に何か白いものがついていることに気付き、「ハッ」とした。
美咲がトイレを出て行ったのを見届けると、私は洗面所の下、パイプの奥に隠すように作ってある盛り塩をしゃがみ込んで見た。
すると、そこの盛り塩は崩れ落ち、床に塩の塊りが残っているだけだった。
「やだ……どうしよう」
予想以上に狼狽えてしまった自分に驚き、その姿を見る誰かに驚いて振り返ると、洗面台の鏡に映る自分がいた。
吸い込んだ息を吐くことを忘れていたかのように、めいっぱいの息をゆっくり吐いて、自分を落ち着かせようとしたけれど、胸に置いた震え出した手が小刻みに震えたまま、しばらく止まらずにいた。
まさか美咲がこれの存在を知っていて、壊した?
いや、そんなバカな……そうだわ、きっと何かと思って触ってみただけなんだわ。
それで、壊れてしまった。きっとそれだけのことだ。
そう思ってから、そうだと決めつけている自分に気づいて愕然とした。
「いや、落ち着け落ち着け……」
そうだ、そうと決まったわけではない。これはただの私の想像だ……
杉田先生に言われた通り、私は考え過ぎだ。
なんでも「ふわふわさん」に結びつけて考えようとしている。
この盛り塩は、ちょっとした振動でも壊れてしまうようなものだろうし、子供たちの出入りが激しいトイレでは、桑田先生が休んでる今、チェックする人がいず、崩れてそのままになっているだけだ。
「ふっ」と、鼻から吐き出した息とともに笑みがこぼれた。
考えすぎ考えすぎとでも言うように、私は首を横に振りながら、その場を離れた。
「教頭先生、ちょっとよろしいですか?」
チラホラと帰り支度をして職員室を出て行く先生が出始めた頃、私は職員室の一番前に席を置く教頭先生に声をかけた。
他の先生方とはほんの少し空間のある教頭と教務の席で話す声は、他の職員には背を向けている私の声は、よほど聞き耳を立てていない限り、聞こえにくいだろう。
「友井先生、どうかしました?」
「あの……つかぬことをお聞きしますが、教頭先生は……その、……盛り塩のことご存知ですか?」
「盛り塩?ああ、そういえばこの学校に赴任するとき、前任の教頭からそんな話をされましたけど、桑田先生も同じ話を聞き、桑田先生がやってくれることになってましたが……そうですね、桑田先生がお休みですから、誰かが見回る必要がありますね。いや、それは私がやるべきですね。というか、友井先生もご存知でしたか」
「はい、ちょっと噂話で耳に入ってしまい、どこにあるのかなと、ちょっと目を光らせてしまいました」
「そうでしたか。あまり気にしないほうがいいと思いますよ。気にし始めるとやたら気になってしまうでしょう?」
「そうですね、毎日のように見るともなしに見てしまいますね」
「そうでしょう?そんなものだと思いますよ。耳に入らないほうがよかったですね」
「そうかもしれません。ですがちょっと気になることがあって……」
「何かありましたか?」
「ええ、クラスの大也君という男の子が、時々変なこと口走るんです。空を見上げて、『ふわふわさんがいる』とかなんとか……最初は体育館でした」
「そういう子、珍しくありませんよ。私も長いこと担任持ちましたが、時々何か見えてるような物の言い方する子はいました。一人遊びをしたりするとき、そこに誰か相手を見立てるようにして遊ぶことが子供にはありますよね。その見立てた『子』が、何かの拍子に学校に現れるんですよ。その子の前だけに。本当にいるわけではありません。学年が下の子がやはり多いですよ。大也君もそうだろうと思います。それこそ、楽しくないこと、例えば授業がつまらなくて頭の中は遊びの妄想などしてたりすると、家でやっているように、語り掛けてる誰かが頭の中に現れて遊び始めるんです。それがまるでそこにいるかのように」
「そうですか。そんなに珍しいことでもないんですね。少し安心しました」
「なんでもそうですけど、気にしすぎてそれに捕らわれ過ぎるのはよくありませんね。まあ、それに加えて盛り塩の話など聞いてしまうと、気になるのは仕方ないですね。盛り塩のほうは私が確認するようにしますので、もう気にしないようにしてくださいね」
教頭先生はいつもと同じ優しい口調と穏やかな笑顔でそう言い、一つ頷いた。
これで話は終わりだという、いつもの仕草だ。
「わかりました。すみませんお手間取らせまして……」
きっと教頭先生の言う通りなんだろう。
そう思うのだけれど、何となく喉の奥に小骨が刺さったように、何かが頭の中に引っかかっていたのだった。




