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私は、初めて意識してそれを見つめた。
今まで意識して見ないように、気付いていないようにしてきた。
けれど、愛が終わることになるであろうこの日、何故か私を追いかけてきた、彼に憑いていた全てを知っているコイツだけが、私の味方のような気がしたのだ。
「だから、なんで付いてくるのよ」
何も言わない。当たり前か。
「オマエ……」
言いかけて止めた。
いくら生きていない人だとはいえ、オマエはないよなと思ったのだ。
「あんた、全部見てたんだよね。いつも彼に憑いてたもんね」
それにずっと気付いていたという親しみを込めて、年下に見える彼に「あんた」と言った。
けれど、返事はない。当たり前か。
「彼から離れていいの?ずっと護ってきたんでしょ?いいの?」
「何しに来たのよ」
「私についてきてどうするの?私を護ってくれるつもり?それって彼に代わって罪滅ぼしのつもり?」
「大丈夫ですか?」
いきなり声が聞こえ、心臓が飛び出しそうなほど驚いた。
えっ?声が出るの?と、それに視線を向けようとしたとき、後ろから来ていた人が私の前に回り込んできた。
「あっ、はい大丈夫です」
「よかった。ごめんなさい、なんかついてこられてると誤解されたみたいで……」
「いえいえ、すみません、私……最近変なことが多くて」
不安げに顔を斜めにして私を見上げる彼女に、私は咄嗟にそう応えた。
自分が他に誰もいないところで誰かと話すように言葉を発している姿は、傍から見たらおかしなこと極まりないことにハッと気づいたのだ。
少し年上に見えるその女性に軽く頭を下げ、いそいそと駅に向かって歩き出した。
その私のすぐ後ろから、それはやっぱりついてきていたが、私は振り返ることなく駅の方向から歩いてくる人たちをよけ、駅前の交差点を左に折れ、そこの複合施設と繋がる立体駐車場に止めた車に乗り込み、助手席に荷物を置いたその瞬間、涙が溢れてきた。
彼の態度は、あきらかに中にいる人を気遣ったものだった。
『拓ちゃん』って、呼んでいた。
それがすごく自然で、日常がそこに見えてしまった。
何故?だって私を愛してるって言ったじゃないの。
一緒に旅行に行き、あの部屋に何度も行き、料理をして食事して、一緒の時間を、夜を過ごし、何度も何度もその手で私に触れたじゃない。
しばらく先ほどのやり取りを思い浮かべ、何か私の勘違いだったかもしれないところを探してみたけれど、探せば探すほど、拒否されたのは私の方だったという思いが強くなっていた。
ふと視線に気づき顔を上げると、フロントガラスの向こうからそれが見ていた。
「慰めようとしてくれてるの?それとも私が余計なことをして彼を困らせないか見張っているの?」
返事はない。当たり前か。
「そんなとこから見ていないで、もう戻りなさいよ。あんたは彼を護ってるんでしょ」
返事はない。当たり前だ。
「っていうか、あんたいったい誰なのよ。まあ、私にわかるわけないけど」
返事はない。
と、そこで初めてそれの顔をまじまじと見たことに気付いた。
いつも気付かぬ振り、見えぬ振りをしていたため、視線をそれに合わせることをほとんどしてこなかったのだ。
「あれっ、あんたもしかしたら……」
いつの間にか溢れていた涙は止まり、潤んだままの目をティッシュで押さえてもう一度ジッとそれを見つめた。
「似てる」
そう、よく見るとそれは彼に似ていた。
「あんた、もしかして彼のお兄さんとか弟とか、お父さんかお母さんの兄弟とか、かなり近い人だったんでしょ?」
返事はない。
「なんでそこにいるのよ。あんたの顔なんて見たくもない。あっち行ってよ」
彼に似たところのあるその顔は、今の私が見ていたいものではない。
けれど、これが生きている人だったら、ほとんど初めて会うと言ってもいいような人に対して、私はこんな言葉は言わないだろう。
「生きている人」と「死んでいる人」
それを確かなものとして意識するようになってから、私はそう考えるようにしていた。
どちらも同じ、人間なのだ。
「あんたと話せたらいいのにね。そしたらこの先、少しは悲しくならないかもしれないのに」
何も言わないことはわかっていた。
ジッと目を合わせ見つめると、少しだけそれが悲しそうな顔をしているような気がした。いや、気のせいか。
私は車を発進させ帰路へとついた。
いつの間にか車に乗り込んでいるそれにも気づいていたけれど、それは私の意志通りには動かないし、言葉も発しないし、全てそれの意志に任せるしかない。
そう、そうだ、それは自由人だ。
「自由人だね。あんたは自由人」




