騎士は静寂に暁染めゆく 4
「素早いやつだな」
主立った日常の終わり。
家路や繁華街へと繰り出す人々が交差する時間帯とあって、広い通は混雑している。
大きな包み背負ったまま、器用にその合間を抜けて逃走する少年に、ディルはたまらずに舌打ちをした。
今はまだ目に追えるところにいるが、巻かれてしまうのは時間の問題といったところだろう。
彼等の腰辺りにやっと頭が届くくらいの少年にとって、この雑踏はとてもたくましい味方だ。
逆に、肩をぶつけて進まなければならない彼等にとっては、たちの悪い障害物でしかない。
だから、ディルは走るためではなく、言葉を紡ぐために大きく息を吸った。
『我は高き尖塔の地にて、始まりの力を導き出す』
謳うような不可思議な響きを持つその言葉は、古語と呼ばれる魔法士たちが扱う語源だ。
遥か昔に人々の口から失われたその語源はあきらかに異質ではあるが、決して不快な響きではなく、聞く者の吐息を誘うような美しさがある。
「ディル!」
人々の視線が集まるなか、ディルが紡ぎあげる巨大な力の渦巻く気配に、まずいとその表情を変える。
が、力の現出は止まらない。
『我は五人の王が一人、ウラノトメリアと盟約をかわす者。
我が声、我が力により界の扉を開き、汝らとの邂逅を望むものである』
走りながら、それでも息を途絶することなく言葉と力を紡ぎ上げるディルの周りに、輝く光線が円を描くように生まれる。
『狭間の世界をたゆたいし幻惑の者よ、盟約を果たす時がきた!』
光の紋様はその輪を二重……三重へと増やし、その輝きを強めながら複雑な紋様を次々と絡み合わせてゆく。
それは円陣と呼ばれる、異なる次元に存在するといわれる精霊の力を導く門。
周囲の迷惑も我知らずと、一杯に広げた両腕を起点と終点とし。
空中に描かれる鮮やかで複雑な紋様は、一種の宗教画のような荘厳さを放ちながら組みあがり、夕闇の王都を輝きに染めてみせた。
(まずい……)
どんな魔法を発動させるのかまでは分からないが、それが笑って許される程度の上限すれすれものであると、長年つき合わされているリーディアの本能は感じ取っていた。
「……伏せろ!」
蓄積された経験が、その危険を悟って吼える。
それとほぼ同時。
純白の輝きが、鮮やかな緑色に変化した。
『トゥカナ・ウラノトメリア・ゼカ・エルフ!』
高らかな呼び声に答えるように、ディルを中心にすえた円陣が瞬く。
『我に孤高なる翼を!』
その言葉と共に、あたりの空気が爆ぜる。
「ひぃいいいいいっ!」
「うわぁぁ!」
魔法士でないリーディアを含めたごく普通の通行人たちには、大通りをなめるように逆巻く突風の正体を探ることは出来ない。
だが、それがとんでもないことであるということだけは本能的に察していたようで、人々は悲鳴を上げながらも素早く道端に避難し、天敵に脅える蛙のように身を寄せ合い硬直している。
「ディル! 貴様ぁ!」
怒声というよりは呪詛のようなリーディアの叫びは、突如生まれた突風によりかき消される。
そればかりではない。
目に見えて渦巻く力の本流は、その力を見せ付けるように、逃げ遅れた不幸な通行人を五人ほど軽々と吹き飛ばしてみせた。
『トゥカナ、我を彼の場所へ!』
吹き飛ばされる周囲の人々の視線を振り切るように、ディルの痩身が星の瞬く薄闇の中に高く飛び上がる。
騒然とする雑踏から高くはなれ、開けた視界のその先には、逃走する少年の様子が良く見て取れた。
「怪我したくなかったら、どいてなよっ!」
標的をその瞳の中にしっかりと納め、ディルは新たに拳大の小さな円陣を編み上げる。
円陣の大きさは、そのまま力の規模を表す。
さすがに、牽制のための魔法を街中で大々的に使うわけにはゆかない。
どうしても威力を絞らなくてはならないが、その分精度は高くし、狙いを定める。
『トゥカナ・ウラノトメリア・エレクト・フェンスツェン』
手元でばちばちと唸る紫の光線をレースのように編み上げて、我先にと逃げ惑う群集の中心にいる少年へとその力を放つ。
『その命尽きるまで、汝が敵を捕らえろ』
流星のような光が、背を向けて懸命に逃げる少年へと猛スピードで襲い掛かる!
が……
「ちっ、弱すぎたか」
触れたものに微弱な電流を流してその足を止めるはずの紫電の弾丸は、標的に当たる寸前に、見えない壁にぶち当たったかのように粉々に砕け散った。
「何をやっているんだ! 貴様」
「不可抗力だよ」
体を空に持ち上げる魔法もその効果が消え、ゆっくりと着地したディルは、地上で待ち構えていたリーディアの怒声に思わず両耳を押さえた。
『クックック……
力ダケハアルヨウダガ、ソレダケデハナ』
肩をすくめるディルに、少年に取り付いた何らかの精霊が嘲るようなくぐもった笑みを虚空に響かせる。
その姿を見ることは出来ないが、両手を組んでふんぞり返る姿を容易に想像できるほど、その台詞には憎らしいものを感じた。
「まったくだ」
その台詞に賛同するように言って、リーディアは精霊によって弾かれた光弾の巻き添えを食らった通行人に視線を向けた。
先ほどの突風ほどではないにしろ、不意の電撃を受けた不幸な通行人は、痺れる体を抱えて悶絶している。
夜が明ければかなりの数の苦情の声が、騎士団の門を叩くだろう。
(しかし……今から悩んでも仕方が無い)
増える頭痛の種を振り払うべく軽く頭を振り、対峙する少年と精霊へと視線を向けたリーディアは、いつでも対応できるように剣の柄に手を伸ばした。
「あっちの味方をしてどうするんだよ」
「したくもなるだろう、この状況では」
「仕方ないだろ!
オレってば、魔力が強すぎて上手くセーブすんのが大変なんだよ!」
背後だけでなく左右……言ってしまえば周囲から向けられる、敵意の混じる視線の意を汲むように苦言をこぼす。
「……と、ともかくこれを何とかするのが先だ!」
意気込むディルの宣誓に、巻き込まれてはたまらないと。
道端に固まって距離を取る通行人たちは、戦闘体制にはいるディルに慄き、一斉に逃げてゆく。
「ひぃぃぃぃ!」
「に、逃げろ」
「おかーさーん!」
これでは、どちらが敵役だか分かったものではない。
「大丈夫だって、今度は上手くやるって。
絶対、捕まえてやるからな!」
ディルは少年と精霊の前に立ってピンと伸ばした指先を突きつける。
『人間風情ガ……我ニ向カッテ生意気ナソノ態度、本来ナラバ許シテハオケヌガ……』
酒の入った袋を抱えて脅える少年の足元に積もる砂埃が、不穏な流れにふわりと舞い上がる。
「この……そっちこそ、生意気じゃねぇか!
使用限定がなかったら、街ごと消滅してやるところを!」
「冗談でも言うな、そんなこと!
……これはっ」
その変化は何よりも急速に……気を張っていたリーディアが動くよりもさらに早かった。
『我ハコノママ、滅ブワケニハユカンノダヨ!』
硬い石造りの路面に、絨毯織りのような紋様が素早く刻みこまれる。
「何をする……つもりだ!」
油断すれば足元から持っていかれそうな暴風に、リーディアは顔を右手で庇いながら精一杯の怒声を張り上げる。
周囲は騒然としていた。
「何とかしろ! ディル!
魔法はお前の分野だろう」
街中で大規模な魔法の使用を禁止されているディルとは違って、何の制約の無い精霊の放つ力は容赦がない。
周囲の建物は明らかに自然界とは異なる無遠慮な力の渦に苛まれ、みしみしと音を立て、突然の騒動に被害者と共に泣いている。
「分野って言われても、オレだって限界があるわけよ。
ああいったのは、魔法使用限定が緩い封印魔法士に押し付けるべきもんだ!」
「それはわかっているが、この場で何とかできるのはお前ぐらいだろう!」
「――んなこと、言ったって……おわっ!」
ディルは、風にさらわれないようにしているのだけでも精一杯のようだ。
たまらずに、側でしっかりと足をつけているリーディアにしがみつく。
背こそ平均並だが、体つきは女性のように細い。ウェイトの少ない身では、この強風は辛いのだろう。
「……ったく。暴れて牢にぶち込まれるのはオレなんだけどな、畜生!」
それでも生来の気の強さに任せて歯を食いしばり、少しでも楽になるようにとリーディアの背後へと移動する。
「……くっ、きさまっ!」
了承も無く風除けにされるリーディアは、たまったのもではない。
(このままじゃ、体よく逃げられちまうぜ)
イライラとその表情を濁すが、それに構わず古語を唱え始めたディルのアイコンタクトに、でかかる怒声を飲み込んで牽制するように少年を睨みつける。
「ひっ!」
気のせいか、月明かりのせいか。
幼い顔にはとうてい似つかわしくない憔悴の影が差し込んでいるのを見止める。
が、今はそれに構っている場合ではない。
『トゥカナ・ウラノトメリア・ラグント・ゼプツェン』
ディルの体から放たれた琥珀の光は薄い膜となり、カーテンのように周囲を覆う。
それは高級ベッドの天蓋のように美しく。ほんの一時ではあるが、見上げる人々に恐怖を忘れさせる優雅な襞を展開させた。
――が。
『その存在を持って、全てを無に帰せ!』
命じられるまま、光の天蓋は一気に硬質化して砕け散る。
暴風と共に消え去る不可思議の力。
だが、最後の抵抗とばかりに砂を含んだ風が舞いあがり、視界を奪う。
「何っ!」
してやられたと思ったときには、既に遅い。
「逃げられたか!」
視界から砂が消え去った後には、軒下で恐怖に身を寄せる人々と、ゴミや何処からか飛ばされてきた品物やらが残っているばかりで、少年の姿は無い。
不気味な静寂が停滞する繁華街をぐるりと見回して足取りを探るが、闇が濃い路地の先に手がかりを求めることは出来なかった。
「……にがしゃしねーよ!」
「ディル!」
当てがあるのか、単なる勘か。
この場から逃げるように薄暗い路地へと走り出すディルを追って、リーディアも月明かりの遠い王都に靴音を響かせた。