02・ポケットティッシュ
最初のキッカケは他愛もないことだった。
あれは、取引先との打ち合わせが終わって最寄の駅へと急いでいた時のことだ。あの時は確かに何かの考え事をしていたのだ。いろいろなことがあり、いろいろなことが頭の中を駆け巡っていた。だから、進行方向を、正面を、歩く先を、足元を見ていたと思うのだが、実際には前すら見てなかったような気もする。
そして、何かにぶつかったのだ。
僕はよろけただけで済んだが、僕にぶつかった『モノ』はそうはいかなかったようで、コロコロと転がり、三メートルほど先で止まった。
「痛ぁーい!」
僕にぶつかった『モノ』はどうやら女性だったみたいで、腰の辺りを擦りながら立ち上がった。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
僕は彼女に近付いて声を掛けた。
「えぇ、何とか」
そう答える彼女に、僕は安堵した。
「怪我が無くて良かった」
僕がそう言って立ち去ろうとした時、彼女は僕に怒鳴った。
「ちょっと! 人にぶつかっておいて、それだけなの?」
僕は振り返って彼女を見た。
「あぁ、そうだ。君は大丈夫そうだから」
僕に彼女はにじり寄ってきた。
「もう少し優しい言葉を掛けて欲しいわよね」
僕の顔を睨み付けながら彼女は皮肉交じりに言う。
「申し訳ない。急いでいるのでね」
僕は早くその場を離れたい気持ちになったが、彼女はそれを許さなかった。
「ホントに急いでいたの? いろんなことを考えていて前も見てなかったとかじゃないの?」
「失礼な奴だな」
ムキになって答える僕。だが、僕の心を見透かすように彼女が喋る。
「ムキになるところがますます怪しいわねぇ」
「何を……」
僕は完全に彼女のペースに乗せられていた。
「あんたが何を考えていたかは知らないけど、あたしはここで商売してんだから」
そう言って彼女は、僕にポケットティッシュを見せた。
「なんだよ、これ!」
売り言葉に買い言葉で、僕も彼女に強い口調で言ってしまった。
「ティッシュだよ、ポケットティッシュ! 見て解んないの?」
彼女も僕に返す。
「解るよ、それくらいは」
僕は少し冷静になる。
「このポケットティッシュをね、ここで配ってんのよ、あたしは」
ちょっと得意げになる彼女。
「アルバイト?」
何気なく、僕が訊く。
「違うって。大事な本業で……って、そんなことはどうでもいいんだってば」
ほんの少し顔色が変わった彼女だったが、まだ彼女のペースで話が進む。
「それよりさ、あたしはこれをあんたに受け取って欲しいのよねぇ」
彼女はそう言って、僕に真っ赤なパッケージに入ったポケットティッシュを差し出した。
「いらないよ」
僕は彼女を睨んだ。しかし、彼女も僕を睨み返した。
「困るのよ、あたしも! どうしても受け取ってもらわないとね!」
譲らない彼女に、僕が念を押す。
「いらないから!」
「ダメなのよ! 絶対にあんたに渡さないといけないだよ。それがあたしの仕事なんだよ!」
僕の言葉に一層キツい顔をして僕に迫る彼女。
「仕事? 何の仕事なんだよ?」
僕が訊くと、彼女はうっと息を呑んだ。
「し、仕事って……あんたには関係ないよ、あたしの事情だよ! そんなことより、頼むから受け取ってよ、お願いだから」
態度が軟化してきた彼女だったが、僕は依然として変わらずにそのままの態度でいた。
「いらないモノはいらない」
彼女は潤んだ目をこちらに向けた。
「そう言わずにさ。手に取ってチラッと見てよ」
そう言って彼女は僕の鼻先にポケットティッシュを差し出す。
「いらない」
僕は軟化しなかった。
「そんな冷たくあしらわなくてもいいじゃない。人にぶつかっておいてさ、その態度はないんじゃないの?」
シュンとして下を向く彼女がボソリと呟く。
「それを言われると……」
バツの悪い顔をした僕に、彼女はすかさずポケットティッシュを差し出す。
「はいっ、どうぞっ!」
そう言ってニヤリとする彼女。
「仕方がないな」
僕は観念して、遂に受け取ってしまった。そして、彼女から手渡された一つのポケットティッシュをしげしげと眺めた。赤いパッケージには白抜きの文字でこう書かれていた。
『不倫計画』
僕はすぐさま、キャバクラの勧誘だと思った。嫌いじゃないんだけどさ、僕はダメなんだよね、こういうのは。だから、思わず叫んでしまった。
「何なんだ、これは!」
そして、僕は彼女を睨んで怒鳴り付けてやろうと思った。
「あのなぁ! いい加減にし……」
大声でそこまで言いながら周りを見回すと、既に彼女の姿は何処にも無かった。
跡形も無く消えたポケットティッシュ配りの女。
大声を出した僕を、好奇な目で見る何人かの通行人と目が合っただけだった。僕は慌ててポケットティッシュを上着のポケットに突っ込んで、何食わぬ顔で駅へと急いだのだった。
「お帰りなさいませ、井上課長」
部下の佐々木彩が部署の入り口で迎えてくれた。彼女はいつも笑顔を振り撒いてくれるのだが、それが企画課の癒しになっている。
「ただいま」
僕は彼女にニコッと笑ってから自分のデスクへと向かう。
「課長、お疲れ様でした」
その途中で、部下の山本美咲が僕に会釈をする。
「ただいま。ありがとう」
僕がそう彼女に声を掛ける。それに反応して彼女は頬を赤らめる。
部長に帰社と打ち合わせの内容を報告をしてから、自分のデスクの椅子に深々と座った。それから何気なく上着のポケットに手を突っ込んだ。すると『カシャ』という手応えが。取り出してみるとそれは、例の真っ赤なポケットティッシュだった。
真っ赤なパッケージに白抜きの文字で『不倫計画』と書かれたポケットティッシュ。
実は、このキーワードから連想するいくつかの事柄が僕の頭の中を駆け巡っていた。噂だけでもなく事実だけでもなく、そして、それは会社のことについてだけじゃない、僕自身のことについてでもあるのだ。
僕は、ポケットティッシュに書かれている文章をじっくりと精読した。
『二日間だけのアバンチュール(ポッキリ四十八時間)』
『後腐れや禍根、煩わしさは一切無し』
『全てがポッキリ二十万円(税込)でOK(ただし、デート費用は別)』
とても怪しい臭いがする。だからと言って、真っ赤なポケットティッシュをこのままゴミ箱に捨てるのは実に簡単なことだ。興味半分で、その先を少々読んでみる。
『お医者様に見離されたあなた、諦めないでください!』
『性のことでお悩みのあなたに朗報です!』
『わが【不倫計画】が全てを請け負います!』
『心理的でも身体的でも何でもOK、あなたを必ず満足させます!』
『詳しくは、下記のサイトで!』
そう書かれた下には、長ったらしいURLがミッチリと書かれていた。
「調べてからでも遅くはないな、このポケットティッシュを処分するのは」
僕はもう一度、ポケットティッシュをポケットの中に突っ込んだ。
お読みいただき、ありがとうございます。