第四話
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予備がひとつなくなっていることに恋音が、気がついたのは部屋に急いで戻ってきてからだった。
どこかで落としたのだろうか?
お風呂上がりの恋音は、今まで使っていたものを目立たぬよう小さく畳むと、もう一度数を数えた。
やはり、ひとつ足りない。
部屋にひとりなら付けなくてもいいが、人前に出るなら、どうしても必要になる。
何かしらのトラブルで複数枚必要になるだろうとは予想し、多くは持って来ている。
今は、別のを使えば良いのだが、失くしたままでは気になって仕方がない。
もし、普通の人がそれを見たら、なんのために使うものか、首を傾げられてしまうだろう。
他の女性陣に気付かれたとしても、男性である袋井には気付かれたくはなかった。
荷物を準備しているときは在ったはず。落としたとしたら家の中だろう。
恋音は、少し無理をして、胸元のボタンを閉めた。
布が悲鳴をあげるように左右に引きつっている。
顔を赤くしながら、114センチという巨大過ぎるQカップの胸を抑えるため、彼女は特殊サラシを探すことを優先した。
静かに扉を開くと、顔だけを外に出して見る。
「おや、月乃宮君。――もうお風呂に入ったのかね?」
偶然にも同時に開いた別の扉から、怠惰が出てきてしまった。
目が合うと、乾ききっていない恋音の髪を見て、お風呂に入ったことを悟ったらしい。
ワンピースタイプのパジャマを着た怠惰は、巨大なだき枕を抱えている。
そのまま、顔だけを出した恋音のもとにゆっくりとした足取りで、近づいてくる。
「……怠惰さん……こ、こんにちは……」
「まだ、夕食もしていないというのに、随分と早いではないか?」
「その……ゆっくり、入りたかったもので……」
「そうなのか? だったら、私も誘ってくれればよかったのになぁ。といっても、恐らくその時間、私は寝ていたがね」
ムフーと不敵な笑いで怠惰は、とぼける。
「……あの……袋井さん、どうしているか、御存知ですか……」
「袋井君か? さぁ、私も起きたばかりだからなぁ。まだ、リビングでのびてるんじゃないかい? 私には、わからないなぁ」
あくびを噛み殺した怠惰は、目に浮かんだ涙を拭った。
「一緒に行くかい? 私も一階に降りて、飲み物でも貰おうと思っていた所なんだ」
「……い、いえ……あの……もし、帯状の長い布を見つけたら、教えてくれませんか?」
「長い布かい? 了解した。探してみよう。しっかし、さっきから、どうして月乃宮君は部屋から、顔しか出さないのかな?」
曖昧な微笑みを返し、言葉を濁す恋音。
怠惰は首を傾げたが、それ以上の詮索はせず、ひとり一階に降りていった。
ホッと胸を撫で下ろした恋音は、自分も怠惰のように枕を掴んで胸元を隠し、静かな廊下に出て来た。
他の面々は、自分の荷物整理をしている所のようだった。
先ほどの歓迎会は、袋井がのびてしまい、一気に白けてしまった。
数人がかりで、なんとかソファーに寝かせた後、責任を感じた律花が看病すると言って、きかなかった。
恋音も少しの間付き合っていたが、律花の強い希望で部屋に戻ることにした。
今なら、他の人に胸のことを意識されずにおふろに入ることに気がついた恋音は、急急と準備をし、入浴を済ませた。
サラシがなくなったタイミングは、そう多くは考えられない。
もしかしたら、お風呂場に予備を無意識に持って行って、忘れたのかもしれない。
恋音は、音を立てないようゆっくりとした足取りで、一階にあるお風呂場へと降りていった。
お風呂場には誰もいない。探しものもなかった。
眉間にシワを寄せ思案顔の恋音は、無防備に廊下に出てしまった。
「月乃宮さん?」
ハッと気付いて、顔を上げた時には、今一番会いたくなかった袋井が目の前に立っていた。
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恋音の瞳が、袋井の右手を凝視している。
右手にぐるぐる巻きにされた布をブレることなく、一点集中して見つめ続けていた。
「やっぱり、これ。月乃宮さんの?」
袋井が右手を持ち上げると、月乃宮の頭も一緒に付いてきた。
リビングを出た所で怠惰と鉢合わせた袋井は、恋音が探しものをしているのを教えられた。
後から降りてくるのでは、という怠惰の予測通り、恋音は二階から降りてきた。
さすがに女子階に上がるのははばかられる袋井にとっては、願ってもないことであった。
声を掛けた恋音は非常に驚いた様子で、今も目を丸くしている。
「ごめん。これタオル代わりに顔に載せてもらっていたみたいなんだ。お返しするね」
腕から取り外し差し出すが、恋音は硬直したまま、受け取ろうとしない。
「……そ、それを……顔に乗せていたんですか……」
「うん。すこし大きかったけど、気持ちよかったよ」
「……大きかったけど……気持ちよかったって……!! な、何がですか……」
「いや、だから、これを――?」
袋井がさらに差し出すと、恋音は一歩引く。
恋音の顔は、火が点いたように真っ赤に染まっていった。
袋井が小首を傾げると、恋音は震える手を伸ばし、サラシを受け取ろうとした。
抑えを失った胸元の枕が、廊下にストンと落ちた。
(あれ、枕が落ちちゃったよ。――おおっ! な、なにこれ!? えええっ!?)
今度は、袋井の瞳が一点を凝視することになった。
袋井の視点はブレることなく――むしろ揺れることを期待し――一点集中して見つめ続けている。
瞬時に我に返った袋井が、目線を上げると恋音の視線と重なり合ってしまった。
「あぅ……えっと――月乃宮さんって、かなり着痩せするタイプだったんだね?」
自分でも怪しいと思える歪んだ笑いをしながら、袋井は頭を掻いていた。
恋音は――途端にポロポロと涙を流し始めた。
「あ、あれ……月乃宮さん?」
悲鳴とも嗚咽とも付かない小さな声を上げて、震えはじめた恋音。
袋井は、「ど、どうしたの?」と、わけも分からず肩口に手を伸ばした。
すると、その手に巻いてあったサラシを、引ったくるように奪われた。
初めて見る恋音の険しい目つきと出会い、袋井がたじろいだ。
刹那に険しい表情は消失し、恋音は顔中で涙を流していた。
「……ごめんなさい……」
袋井の脇を抜け、恋音は声を押し殺して二階に上がっていってしまった。
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しばらくして、降りてきた恋音の肩には、持ち込んだ荷物がすべてが掛けられていた。
「……袋井先輩……ごめんなさい……やっぱり……私は……一緒に住めません……」
硬直したままの袋井の隣には、生あくびを噛み殺して涙を流している怠惰と、柳眉を逆立てて袋井を睨む世那が立っていた。
「なにしたのよ、あんた」
耳を引っ張り小声で話しかける世那に対し、袋井は何も言えず放心していた。
恋音は、丁寧なお辞儀をすると、ひとり陽報館から出て行った。
袋井の目に映る恋愛線が、その幅を広げ、引き伸ばされたゴムのようになって千切れると、ついには消えてしまった。
「ちょっと、追いかけなくていいの?」
「いや、でも僕も……なにが、なんだか?」
袋井の襟首を掴み、睨みつけた世那だったが「馬鹿らしい」と呆れて、その手を離した。
首を横に振ると、二階に上がっていってしまった。
怠惰もそれに習い、袋井の腰を軽く小突いた後、何も告げず去っていった。
(僕が悪いのか……?)
いまだ放心状態から抜け出せない袋井は、ただただ玄関で立ち尽くしていた。
すると、数分もしないうちに、ドタドタとふたつの足音が二階から降りてきた。
袋井が振り返ると、そこには息を切らした二人の娘の姿があった。
「りょ、凌雅の姿が見えない!」
「りょうちゃんがいないの……」
二人は真っ青な顔をして、袋井の腕を掴んできた。
「凌雅君が、どうかしたのかい?」
「いないのよ、どこにも! 連絡が取れないの!」
「りょうちゃんに、いくらメールしても返事が来ないの! 電話しても繋がらないの!」
腕を振り回す二人の尋常じゃない訴えに、袋井はやっと事態を把握し、色を失った。
「凌雅君が、どうしたって!?」
「いないの! 消えちゃったの! 見つからないのよ!」
「パパ! 早く、りょうちゃんの部屋に行こう!」
息を呑んだ袋井は、三階に駆け上がった。
凌雅の部屋を、勢い良く開く。袋井に続いて、付いて来ていた二人と中に入る。
部屋には、凌雅の姿はなく、荷物だけが置かれていた。
床に置かれたボストンバッグからは、衣類が顔を覗かせている。
備え付けのテーブルの上には、なぜか写真の入っていない写真立てが飾られている。
半分開いたタンスの前には、奇妙なジャージが落ちていた。
凌雅が家に到着した時、着ていた白いジャージだ。
まるで中身だけがすっぽり抜けたように、縦に潰され、床に落ちている。
他の服は丁寧に折り畳まれ、タンスに綺麗に仕舞われているのに、そのジャージだけが大雑把に脱ぎ捨てられている。
混乱する頭を必死に抑え、袋井は半笑いになって二人の娘に向き直った。
「なにかの悪い冗談――」
違和感があった。
二人は天使と悪魔だ。
自分の娘であるため人とのハーフだが、天魔の血がながれているため、背中に特別な羽根が生えている。
言われるまで気付かないほど、その羽根は小さく目立たない存在であった。
だが、いま目にしている二人の背中には、間違いなく天使と悪魔特有の羽根が見て取れる。
『魂が三つに分かれているから、力もちゃんと発動できていないし、成長も遅い』
律花の話を信じるならば、彼らは本来の成長を果たせていない。
もし、三つに分かれている魂のひとつが消滅し、その力が残りの二人に分配された場合、彼らにはどのような身体的変化が生まれるのだろう。
もし、目にしている姿が、その結果だとしたら……。
「パパ! 急いで! 恋音さんに謝って!」
「恋音さんとの関係が戻れば、凌雅は戻ってくるはず! お父さん、お願い! アタシ達も一緒に行くから、恋音さんに謝ろう!」
事態を把握し切れぬまま、袋井は二人に引っ張られ、恋音の後を追う事になった。
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「どこに行ったかわかる!?」
「……わからない」
「恋音さんの元居た寮はどこなの!?」
「……知らないんだ。そんな話しは、しなかった」
「もう、何やってんのよ! お父さんの大事な人になるかもしれない人なんだよ!」
二人に連れられ、袋井は島内を彷徨っていた。
宛もなく、行くべき場所も定まらなかった。
恋愛線の力が使えたなら、矢印が教えてくれたかもしれない。
だが、袋井と恋音を繋ぐ恋愛線はすでに消滅している。
自力で探すほか、ないのだった。
「嘘なの……こんなこと。何かの間違えなの……」
玲那は怯えた表情で、袋井にすがり付いていた。
袋井自身にも、理由がわからない。
三人をはなっから、自分の子供となど思っていなかった。
考えたくなかったが、彼らは何かしら事情を抱えた壊れた子供たちであった方が、袋井には都合が良かった。
未来の出来事に信憑性など必要なかったのだ。
(どこだ……どこにいる……頼むから、もう一度話だけでもさせてくれ――)
島内の繁華街を歩き、恋音らしき人物を探し続けるも、その姿は一向に見られない。
怯えて歩く三人に、近づく人影が会った。
「あれ? 袋井さん。珍しいところでお会いしましたね」
声に振り向くと、そこには黄昏ひりょが立っていた。
「ああ、お子さんたちも一緒なんだ。仲良さそうで、何よりです」
屈託のないほほ笑みで、黄昏は、袋井たちに笑いかけた。
あの場にいた黄昏は、子供達の話を冗談として受け取っている。
それでも子供たちの保護を申し出たのを聞き、黄昏は袋井の懐深さに感銘を受けていた。
「黄昏君! 月乃宮さんを見なかったかい?」
「月乃宮さんですか? だったら、さっきおみかけしましたよ」
「本当かい!? いったい何処で?」
「学園の中庭ですね。ベンチに座って泣いていました。――ちょっと! まさか、月乃宮さんを泣かせたの、袋井さんですか!? 少しは見直したのに! どういうことですか、袋井さん!?」
ムッとする黄昏に、袋井は「事情はいずれ」とお茶を濁して、走りだした。
娘たちも袋井に付いて行き、三人は目を三角にした黄昏に見送られた。
◇◆◇
中庭のベンチには、膝を抱え丸くなる恋音の姿がある。
丁寧に整備された芝生はまだ青さが残り、風に冷たさを感じ始めていた恋音の瞳に、月の光が反射していた。
「……月乃宮さん」
ビクッと縮こまった恋音は、目の前に現れた袋井を視界に捉えた。
恋音は小さくなるだけで、逃げ出しはしなかった。
袋井が中庭に来た時点から、恋音は動きを見せない。
膝を抱え、全身を閉じ込めるように身を縮め続けている。
「謝りたいんだ……月乃宮さんに嫌な思いをさせてしまっていたのなら、直したいと思う。どうしたら良いか、教えてほしい」
恋音は、袋井の言葉を聞くと更に膝を強く抱え、その間に顔を隠してしまった。
袋井はそれ以上何も言えず、その場に立ち尽くしてしまった。
「恋音さん!」
動けずにいた二人を見かねて、律花が近づいてきた。
恋音は目を丸くして、涙目の律花と――その律花にしがみついている玲那を見た。
「ごめんなさい! 恋音さんのサラシを勝手に使ったのアタシなの! 手頃なものがなかったから、拾ったのを勝手に使ってしまって……。大事なものだって、知らなかったの! 本当にごめんなさい!」
律花は90度近いお辞儀をして許しを請い、つられて玲那も頭を下げていた。
二人の姿を見た恋音は、怯えた微笑みを返していた。
似たような表情を袋井にも送った後、恋音はおずおずと静かな声を出した。
「……違うんです……私が逃げ出したのは……勝手に物を使われたからじゃなくて……自分の醜い姿を見せてしまって……袋井さんや……他の皆さんに……避けられるのが怖かったから……私と一緒にいて……嫌な思いをしてもらいたくなかったから……私が……消えたかった……だけなんです……」
それだけ言うと、恋音はまた縮こまってしまった。
袋井は、お構いなし、恋音の手を掴んでいた。
「それは違う! 僕は、月乃宮さんと一緒に居て嫌な思いなんてしてない! 月乃宮さんを誘ったのは、僕なんだ! 僕が月乃宮さんを避けるはずない! 側にいたい! 嫌な思いなんて、絶対にさせない!」
言い切ってから、袋井の頭に疑問符が浮かんだ。
恋音の言い分をただ否定したつもりであったが、取り方によっては完全に愛の告白であった。
袋井が固まっているのは当然ながら、周り三人も突然の愛の告白に硬直していた。
恋音の頭が――沸騰した。
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失神した恋音をおんぶし、袋井たちは陽報館に戻ってきた。
入り口では、世那が玄関に寄りかかって、待ち構えている。
「何してたの、あんた達?」
三人とも曖昧な笑みを返すだけで、言葉が出なかった。
「今日の夕食は、あたしと凌雅君で準備したわ。次回からは当番制にしてよね……」
「凌雅君が、戻ってきているのかい!?」
「はぁ? 彼は、ずっと家にいたわよ。玄関に靴があったでしょ?」
呆れ顔で世那が玄関を開けると、入り口に凌雅の姿があった。
いつも通りのアルカイックスマイルで、三人と背負われている恋音を出迎えた。
ホッと、三人とも同じ表情で、安堵の溜息を付いた。
(これで、なんとか落ち着くかな……)
(さぁ? それはどうかなぁ~?)
唐突に、袋井の頭に直接問いかける声があった。
(な、な、な、なんだ!?)
聞いたことのない声だ。
左右を見渡し、出処を探すが周りにいるのは見知った顔しかいない。
娘たちはキョロキョロする袋井に下から眺め、疑問符を浮かべている。
背中の恋音はいまだ、気絶したままだ。
(はっはっはっ、そっちじゃない。上だ、上)
袋井が空を見上げると、そこには半透明のシルエットが二体浮かんでいる。
ひとつは小さな天使の少女。
もうひとつは、フクロウの悪魔だった。
どちらも10センチ程度の大きさしかなく、袋井の頭の上をグルグルと回っている。
(な、なんだ、お前ら!)
(ほお、殊勝じゃないか。我々の姿は、他の人には見えないからな。もし、声を出していたら、変人扱いだったのになぁ)
(ざんねん。もっと、面白い子だと思ったのにぃ~)
二体は、喜び飛び回っている。
(お前らあの時の二体か!)
(そりゃあ、そうでしょう? 他に思い当たるフシがある?)
苦々しい表情を作り袋井は、ふたつのシルエットを睨みつける。
意に介さず二体は、楽しげに笑っていた。
(君は実に面白いね。こんなの初めてだよ)
(ほんとほんと! おもしろい恋愛線を、たくさん見せてくれそう!)
(なにが面白い!)
(面白いよ、君。我々すら、はじめての経験だ)
(だって見なさいよ、あれ。今のあなたなら、もう見えるでしょう?)
そう言って、天使が指差す方向には凌雅がいる。
凌雅に向けて、まっすぐ二本の矢印が引かれ、そこには片思いを示す半分のハートが浮いている。
矢印をたどって始点の位置に立っていたのは――袋井を見上げる天使と悪魔――二人の娘たちだった。
袋井雅人、17歳。
彼には――女難の相がある。