第一話
PROLOGUE
「はじめまして、お父さん! アタシたち、未来から来たの!」
袋井雅人(jb1469)、17歳。
「俺は、月乃宮凌雅! ――俺たちは、オヤジにどうしても頼みたいことがあって来たんだ!」
ボサボサ頭に、黒縁メガネ。
「アタシ、不破律花! ――お願い、お父さん! アタシのお母さんと結婚して!」
中肉中背、私服はジャージ。
「……レナは、土岐野玲那です! ――パパ、お願い! そうしないと、レナたちの存在が消えちゃうの!」
占いは信じないことにしている、彼には――
「「「お願いします!!!」」」
女難の相がある。
1
「この依頼が成功したら、オレ告白するんだ」
撃退士・袋井雅人は迷っていた。
すでに壮大なフラグ立ては、完了している。
告白する相手も、告白する内容も決まっている。
この依頼で格好いいところを魅せ、告白する。
すべての条件は揃っていた。
後一歩で、その瞬間に辿りつけると確信を持っていた。
だが――
「ここは――どこですか?」
彼は、完全に道に迷っていた。
茨城県某市郊外。
過去のゲート事件により、ゴーストタウンと化したこの街で、彼は途方に暮れるという予期せぬ選択肢にぶち当たっていた。
(『オレ』なんて使い慣れない言葉使うからこうなるのかな? でも、これはないよ、普通……)
休止したはずのゲートに現れたサーヴァントの討伐。
決して難しくはない、今回の依頼。
他の仲間は、小遣い稼ぎのために参加しているというのが、ほとんどだった。
『この依頼で告白する』などという壮大な計画を立てて意気込んでいるのは、袋井だけであり、その告白される相手である武田美月もまた、特別な意気込みなど持っていなかった。
(最高の運気だって、そう言ってたじゃないかぁ~……)
今朝のテレビ番組の占いを思い出し、袋井は深くため息を付いた。
ボサボサ頭に黒縁メガネ、中肉中背の体を白いジャージで包むこの頼りなさ気な青年は、久遠ヶ原学園に所属する政府公認の撃退士――人類の希望である。
死んだ目付きで立ち尽くす袋井のポケットから不意に、騒がしい音楽が流れた。
袋井の外見には似つかわしくない大音量のロックは、上着に入れた携帯電話からだった。
苦手な相手からの着信には、事前に音楽を変えてある。
小心さを物語るこの設定も、今の袋井にとっては救いの知らせだった。
「ルナくん! 今どこにいるんだい!?」
『袋井ぃ~、何してんだよ。それはこっちのセリフだろ? どこほっつき歩いてんだ?』
「いや、よくわからない……。お墓が見えるから、恐らく神社かお寺の近くだと思うんだけど……」
周囲を囲む小高い丘にはたくさんの墓が並んでおり、この一帯が神社の敷地であることを伺わせる。
『どこだよ、そこ? 天使退治に、神頼みでもするつもりだったのか?』
「いや、サーヴァントは、天使じゃなくて、使徒だから少し違うような……」
『そういうこと言ってんじゃねぇよ! んなこと、いちいち突っ込むな! ――ったく、早く来いよ!』
「ちょ、ちょっと待って! ルナくん、今どこにいるの!?」
『ここか? ここはなぁ~……。――あ、ワリィ』
「なに?」
『ゲート入ぃ――』
ブツリと通信が途切れた。
恐らく、他の仲間達は一斉にゲートに突入した。
「電波が届かないこと知ってて、わざとやってるだろう!!」
すでに、通話の途切れた携帯電話に袋井は叫んでいた。
平行世界からの侵略者――天使と悪魔に対抗しうる手段として結成された特殊能力集団・撃退士。
通常の物理兵器が効かない天魔に対し、唯一無二の対抗手段であるV兵器を操れる特別な才能の持ち主たちである。
そんな彼らだが、普段は学園に通う普通の学生である。
勉強もすれば、恋もする。
普段の何気ない生活の中で培われた意識の力こそが、天魔に対向する能力となる。
時に友人に邪険に扱われようとも、彼らにとっては重要なファクターなのだった。
(あぁ……どうしたらいいんだぁ……)
頭を抱え、掻きむしる袋井。
天魔たちが生成するゲートとは、亜空間に作られた要塞である。
一切の電波通信は届かず、唯一の通話手段である光信器は、日頃から持ち歩くようなものではない。
今の袋井ができることは、依頼を終わらせた仲間から連絡を待つほかになかった。
「……はぁ。帰るか……」
ここにいても仕方ない。
そう判断した袋井は、立ち上がって駅に向かうことにした。
一番近い駅は、袋井が居る場所から約10分ほど。
遠くはない。
問題は、次の電車が何時に来るかだ。
すでにゴーストタウン化しているこの街で電車などないに等しい。
一時間に一本はかなり多い。半日に一本というのが普通である。
――キィィィィイイ
歩き出した途端、背後から聞きなれない音がした。
振り向くと、空へ抜ける長い石段が目に入った。
高い場所からだったら仲間を見つけられるかも知れないと、この神社の境内を目指している所だった。
すでにゲートに入った仲間を今更、視認することは出来ないため、登る気持ちは薄れていた。
それでも、振り返った袋井は石段へと足を踏み出していた。
先ほどの音が、どうも気になる。
(今のは悲鳴、それとも鳴き声か)
石段を慎重に登りながら、袋井はなぜかポケットから小さな鉄片を取り出した。
神社に売っているお守りのような飾りを強く握り、ゆっくりと、そして慎重に袋井は石段を登っていく。
音は次第にはっきりとし、それが生き物の声であることがわかった。
この世のものとは異なる響き――袋井は、それが奴らであることを無意識に感じ取っていた。
(近くにゲートはないはずだけど。学園に報告するべきか)
どのような撃退士であっても、ひとりで討伐に出向くのは非常に危険である。
相手がどれほどの脅威か、知るすべがないからだ。
危険因子は、発見次第学園に連絡。
準備が整った時点で依頼として仲間を募り、討伐にあたることが基本である。
この街はすでにゴーストタウンであるため、被害がすぐ出るという可能性はないだろう。
状況の掌握後に収拾に乗り出したとしても、問題はないように思われた。
石段の最上部から顔を覗かせ、目線を走らせた。
ぐっと心臓を鷲掴みにされる恐怖心が、袋井を襲った。
(天使と――悪魔だ……。どうして、こんな所に!)
鉄片を握る手に、じわりと汗がにじむ。
天魔は一体だけでも厄介である。
それがよりにもよって二体。別々の個体である。
はぐれた袋井が見つかれば、危険なのは間違いない。
即座に頭を引っ込め、早まる動機を必死に抑えつつ、袋井は肩で息をした。
(……落ち着け。光纒して、ヒヒイロカネから慎重に武器を取り出せばいい……。幸い、僕の武器は弓矢だ。距離をとって、相手の機動力を削ぐことが出来れば、逃げるタイミングは作れる……)
袋井の全身からゆらりと、淡い光が漏れ出す。
撃退士の能力の開放・光纒。
先ほど取り出した鉄片・ヒヒイロカネから天魔に対向する唯一無二の武器を召喚する能力である。
物理接触を透過する能力を持つ天魔たちには、近代兵器の一切が通用しない。
撃退士たちは、アウルと呼ばれる自らの能力を武器に纏わせ、行使することに寄って初めて、天魔たちに対抗することが出来る。
また、天魔達と対峙する彼らが覚醒させた能力は、人間の身体能力を大きく超越させることができる。
プロのスポーツ選手並みの身体能力を身につけることが出来、今のような状況であれば、そのまま身を潜め、逃げ切るのが得策である。
だが、頭を上げ、再び天魔たちを見据えた袋井は、なぜかその場から離れずにいた。
(おかしいぞ。こいつら……)
二体の天魔は、本殿に続く石畳に転がっている。
天使は、まるで赤子のように姿に小さな羽が生えている。
鞠をふたつ重ねたほどの大きさ体に、蝙蝠の羽根、鳥の顔も持ってるのは悪魔の方だ。
どちらもボロボロに傷つき、全身からは血を流している。
先ほどから聞こえる声も弱々しく、天使からはもう吐き出す息すら聞こえないように思えた。
(これはチャンスなのか。それとも――)
保護するべきなのだろうか?
学園では傷ついた天魔を助け、仲間にするというケースが稀にある。
彼らは侵略者であっても、意思疎通が不可能という訳ではない。
彼らへの対抗手段であるV兵器の開発にも、寝返った天使の知識が関わっている。
何千年も生きる彼らの知識は膨大であり、人間にはない感性を持ち合わせていた。
保護し仲間に加えることが出来るのであれば、この侵略戦争に対し大きな力となり得る。
袋井はヒヒイロカネをそのままに、ゆっくりと顔を上げ、二体に近づいていった。
「ねえ、君たち大丈夫かい?」
声に反応し、顔を上げたのは悪魔の方だけだった。
額からも血を流している悪魔は、ギギギと声を出しながら頭を持ち上げ、袋井を見詰めた。
真っ黒な瞳に、袋井の顔が鏡のように映り込む。
(これはもう……)
首を振る袋井の顔には、諦めの念が生まれていた。
彼らは保護対象とも、ましてや敵対目標とも言える状況には見えなかった。
袋井はヒヒイロカネをしまい、二体の前に膝をついて座った。
動かなくなった天使と、袋井を見詰め続ける悪魔。
彼らは手をつないでいた。
ボロボロになっていても、その手を離していなかった。
(……報われないな、君たちも)
この侵略戦争で、天使と悪魔が直接争うことは少ない。
だが、裏切り者に対しては、別である。
どんな事情があろうとも、堕天し、はぐれものとなった存在は抹殺の対象になる。
彼らの絶対的狂気が垣間見れる、そんな瞬間でもある。
この二体は、もう死ぬだろう。
袋井が出来るのは、ただそれを見守ることだけだった。
袋井は胸に詰まるなにかを吐き出すため、大きく息を吐いた。
流れ出る吐息は悪魔の顔へとかかり、その体毛を揺らした。
悪魔が少しだけ口角を上げたように見えたのは、ほんの一瞬だった。
(――えっ!)
驚いて身を引いた直後、天魔の体は発光した。
二体の光は一つとなり、袋井の胸へと襲いかかる。
膝をついていた袋井は避ける事が出来ず、その光を真正面から受け吹っ飛ばされた。
「がはっ!」
力は弱く、数センチも飛ぶことはなかった。
しかし、確実に袋井の心臓を突いていた。
「クソッ! なんだ!?」
胸を押さえ飛び起きた袋井は、先ほどの二体がいた場所に目をやる。が、そこには何もなかった。
(これは――いったい)
立ち上がり、辺りに耳を澄ませても、神社は何事もなかったように静まり返っていた。
胸元に傷ひとつなく。痛みも、圧迫感もない。
(……嘘だろ)
状況を理解できたわけではない。
だが、天魔が、袋井に何かしかけたのは明白であった。
単独行動を行い、学園にも報告せず、自らをピンチに追い込んでいる。
かなりの重大なペナルティだ。
この状況を、安易に人に話せるものではないことは、袋井にも理解できていた。
(やっばいなぁ……)
ガクッと膝を落として、石畳に手をついた。
立て続けに起こる最悪の状況。
(もう、占いなんて絶対信じるもんか……)
心の折れる音を聞いた袋井の耳に、明るく爽やかな音楽が響いた。
先ほどとは違う――小躍りしたくなる携帯電話からの着信だ。
慌てて携帯を取り出し、通話ボタンを押す。
「はあぃ、袋井です!」
声が裏返っていた。
『袋井くん? 私、美月です』
「えっ、あっ、武田さん?」
急に背筋がピンとなり、袋井はまっすぐと立ち上がった。
耳に響く優しい声が、袋井の鼓動を急速に早めた。
『どうしたの? 確か一緒に依頼受けてたよね? 全然姿が見えないんだもん……心配になっちゃって』
「あっ、うん。どうも道に迷ったみたいなんだ。もう依頼終わっちゃったかな?」
『うん。サーヴァントは、もう片付いちゃった。袋井くんは大丈夫?』
「あっ、もう全然平気! 僕のことなんて気にしなくていいよ!」
『そっか、良かった。じゃあ、学園でね。バイバ~イ』
プツリと通話は切られ、また虚しい風の音が聞こえる。
「えーっと、帰るか!」
誰に言うでもなく袋井は、気合を入れ直した。
それでも、袋井の口からは「……はぁ」とため息が漏れ、どっと襲う心労が足取りを重くした。
自暴自棄となり周囲への警戒を怠っていた袋井は、その日初めて――パンダに襲われた。
2
「はっはっはっ、いや~すまない! あんな所で、同じ学生に会うとは思わなくて、ついイタズラしたくなってしまった!」
風を切って走るベスパの後部座席で袋井は、運転手の背中にしがみついていた。
乱暴な運転に振り落とされまいと必至に耐え、袋井は顔をあげる。
「勘弁して下さいよ、下妻さん! もう少しで、攻撃するところだったんですよ!」
「悪い、悪い! 袋井君が、あまりに元気がなそうだったものだったからな。ぱっぱを掛けるつもりだったんだが!」
ベスパはゴーストタウンであることを良い事に、恐ろしいスピードで疾走していた。
それを操る下妻と呼ばれた学生は、躊躇なくスピードを上げていく。
下妻笹緒(ja0544)、彼もまた袋井と同じ久遠ヶ原学園に通う生徒である。
彼は『久遠ヶ原タイムス』を発行するエクストリーム新聞部の部長である。
大勢の個性豊かな部員を抱えるこの超新聞部は、それを束ねる部長が特に秀でて個性的であった。
その言動もさることながら、やはりその容姿が他を圧倒する存在感を持っていた。
なぜなら、彼は『パンダ』だったからだ。
「どうして下妻さんは、あんな所に居たんですか!?」
「私か!? 私は、あの近くに面白いパワースポットが出来たという情報を得てね! ブン屋としては、現場取材をするつもりだったんだが、ガセだったらしい!」
「何もなかったんですか!?」
「ああ!! ハズレだった! 恋愛相関図が見れるという触れ込みだったんだが、そんな物は皆無だったよ!」
傍から見れば中国雑技団のような様相で疾走するベスパ。
整備された国道沿いに入ると、街道に人の姿もチラホラと見えるようになった。
下妻もゆっくりとスピードを緩め、道筋を確認するため赤信号でベスパを停車させた。
羽織っている制服から地図を取り出し、下妻は現在位置を確認していた。
「あの神社は、一体何なんです?」
背後から袋井は、すこし声を小さくして呼びかけた。
先程まで風の中を大声で喋っていため、若干喉が痛い。
「あの神社か? あそこは、日本では少なくなった陰陽師専門の神社だよ。陰陽術は、平安時代に日本で高い政治的影響力を持っていた。だが、時代が移り変わるごとにその勢力が衰えていってね。江戸時代では、迷信とされるようになっていた。――今でこそ、撃退士の力のひとつとしてその実力を見せるようになったが、昔に建てられた神社は撃退士との関わりが薄いぶん、ほとんど放置されたままだ。あの神社も、そのひとつだよ。稀に我々の助けになる陰陽師の遺物が、発見されることがあるんだがね。今回は、ハズレだったというわけだ」
信号が青になり、道を大きく左に曲がると、ベスパは住宅街の中に滑りこんでいく。
四方を家々に囲まれ、曲がりくねった道を進むと、ベスパは急に停車した。
下妻が、大きな体を揺らして無言で車体から降りる、袋井もつられて、路上に降り立った。
「悪いな、袋井君。送って上げられるのはここまでだ。この後、別の取材があってね。この先に、学園の人工島まで行くバスが出ているはずだから、それを使って戻るといい」
「ありがとうございます、下妻さん。――ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんだい、袋井君? 同い年なんだから、そんな硬っ苦しくする必要はないぞ」
制服を着込んだパンダは、腕を組んで袋井を見ていた。
「いや、まあ、そうなんでしょうけど……。どうして、下妻さんは、パンダの着ぐるみをいつも着てるんです?」
「なかなか興味深い質問だ。――袋井君は、学園にどれくらいの人間がいると思う?」
「えーっと、4万人ぐらいですかね?」
「部外者を含めると約6万から8万人いると言われている。それだけの数の人間がいるんだ、個性的なパンダがひとりぐらい生まれても不自然ではないと思わないかい?」
(十分、不自然だと思います……)
「個性は大事だよ、袋井君。いつまでも無効性に甘んじていてはいけない。自分の使命を見出し、活躍する場を見つけなくてはいけない」
「そんなもんですかね……」
「もちろんだよ、袋井君。君には伝えるべきことがたくさんありそうだが、今は時間がなさそうだ。またの機会にしよう――」
下妻は言葉を切ると、厳かに組んでいた腕を解き、まっすぐ指を前方に向けた。
顔に疑問符を浮かべた袋井がそちらを向くと、曲がり角からバスが顔を出し、今にも走りだす所であった。
◇◆◇
袋井は、すでに走り出していたバス止め、苦笑いを浮かべながら乗車した。
白い視線を一身に浴びながら、全力疾走をして荒れた息を整える。
吊革に掴まりため息を付くと袋井は、揺られるバスを見回した。
偶然にも仲間とバスで合流する――などという淡い期待は当然裏切られ、異様なモノが辺りに溢れかえっているのに気がついた。
(なんだ、あれ? 矢印、だよな。その上に、ハート?)
目に映るのは、袋井を含めたすべての人間に矢印が結びつき、その中央にハートと思われるシンボルマークが浮かべている不思議な光景であった。
ハートには種類があり、割れたもの、半分だけのもの、ピンクに色づき鼓動を打つものなど様々であった。
(こんなもん、流行ってたかな?)
袋井が疑問を浮かべていると、バスの前方からパンッと弾けるような音がした。
「あ~もう! 知治さんとは、お別れします! さようなら!」
学園の生徒と思しき少女が、次に停まったバス停で飛び降りていった。
「ま、待ってよ~。立花さ~ん……」
情けない声を発し、頬に手の跡を残した男子生徒が追いかけていく。
袋井には、二人の間にあったハートが急激に萎み、ガラスのように割れるのが見えた。
(なんだありゃ……?)
バスは何事もなかったかのように走り出し、路上で揉めている二人を追い越していった。
「可哀想な奴ら。もう終わりだな、あの二人」
「……そうね」
袋井が立つ側で、黙々と座りながら本を読む女性に、前の席の男が振り返り熱心に声をかけている。
男性が話し続けているのに女性の方はどこ吹く風と、ほとんど無視して本を読みふけっている。
男性から出る矢印には半分のハートが乗っているが、女性から出る矢印には、なんらシンボルは浮いていない。
「あの~ちょっと、いいですか?」
事態の理解できない袋井は、意を決して声をかけた。
男性の声には無反応だった女性が、袋井の声に対しては顔を上げた。
「なにかしら?」
真剣な眼差しで本を読みふけっていた女性は、優しい微笑みを袋井に向ける。
赤い髪を流す女性は、赤い縁取りのメガネを掛け、先程までとは打って変わって柔和なほほ笑みを浮かべている。
「この矢印なんでしょう?」
「矢印? どれのこと?」
袋井は二人の間にある矢印を指さしているのだが、女性は不思議そうにキョロキョロと辺りを見渡す。
袋井はもう一度同じ所を指を差すが、女性は、意味がわからない、と顔を曇らせるばかりだった。
「何のことを言ってるか、さっぱり分からないんだけど?」
「お前、凪さん、困らせんなよ!?」
「忠吉くんは、黙っててくれる?」
笑顔で女性に制され、男性はそれ以降なにも言わなくなってしまった。
相変わらず二人の間には変化のない矢印が存在しているのだが、女性の視線は定まらなかった。
(み、見えていないのか?)
事態を把握し切れぬまま、袋井は「すみません、見間違えでした」と引き下がることにした。
女性は納得のいかないという表情を浮かべたが、メガネの位置を直すとまた黙って本を読み始めた。
黙れと言われた男性は、本を再び読み始めた女性をチラチラと見るばかりで、やはり喋らなかった。
(どういうことだ?)
袋井はまた辺りを見渡し、何のための矢印か、自分で考えることにした。
(ハート型ってことは、心って意味だよな。矢印は、女性から男性、男性から女性に向けられて伸びているみたいだし……)
バスの外では、たまに男性から男性、女性から女性に伸びている矢印も存在したが、少数派であったため袋井の目には入っていなかった。
(さっきの騒がしいカップルは、男の子が女の子にフラれたってことだよな。だから、ハートがしぼんで割れた。――目の前の二人は、男の方は女性に好意があるのに、女性の方は全く男に興味を持っていない。だから、男の方にだけ半分のハートが浮かんでいるってことか。なるほど、これは読めてきたぞ。つまり、僕が今見えているものは――)
「下妻さんが言っていた、恋愛相関図ってヤツじゃないか!?」
バスの中で、袋井は大声をあげていた。
気づいた頃には、周りからまた白い視線が向けられている。矢印がなくとも、周囲が引いているのがわかった。
バツの悪い笑みを浮かべ、袋井は誰にでもなく頭を下げた。再び目線が合わないよう、まっすぐと正面を見詰める。
袋井の視界には、海上の橋を渡り、学園へと入る人工島の入口が見えていた。
3
袋井は気付いてしまった。
目の前にいる想い人が、自分に何ら関心がないことを。
「おまたせ、袋井くん!」
武田美月(ja4394)は、袋井と同じ学園に通う高校2年生である。
彼女もまた、撃退士。
赤毛のポニテールを揺らし、快活な笑顔で男女隔たりなく接する誰にでも愛される猪突猛進系の少女である。
本人に自覚はないが、数多くの生徒が彼女を好いている。
その証拠に多くの矢印が彼女へと向けられ、その殆どに半分だけのハートが浮かんでいる。
袋井のそれもまた、同じである。
反して美月から放たれる矢印には、ハートは見られない。
美月は裏表のない少女だ。
好きなものは好きといい、嫌いなものは嫌いと言う。
もし、美月が恋をしていたのなら、恐らく誰もが一目見てわかることだろう。
それほどまでに、美月の表情はとても豊かで、素直だった。
「どうしたの? なんか浮かない顔してるね?」
「いえ! なんでもない、ですよ……」
引きつった微笑みで、袋井は美月の問いに答えていた。
美月から袋井へ繋がる線は、綺麗な矢印だけであった。
気には掛けている。でも、関心はない。
袋井が美月と再会するまでに導き出した答えが、それであった。
「ルナくんは、一緒じゃないの?」
「彼は、別の用があるらしくって……。ほら、彼って喫茶店のマスターしてるから」
久遠ヶ原学園の生徒たちには、自主的な経営活動が許可されている。
広大な敷地内に生徒運営の喫茶店や、小売店があり、学園内を通っている交通機関もまた学生が運営している。
「なんか失礼しちゃうな! 呼び出した本人がいないだなんて――っで、話ってなぁに?」
ぷくっと膨れて、パッと微笑む。
千差万別の彼女の表情に、袋井はタジタジである。
「え、え~と……。ほら、さっきの依頼。ごめん、間に合わなくって……」
「ええっ~そんなこと! いいよ、気にしなくて!」
「で、でも、ほら電話まで掛けてきてもらっちゃったし……」
「あれは、ルナくんも気にしてたから。何かあったのかもって。私は、たまたま掛けただけだよ」
てらいのない言葉に、むしろ袋井は傷ついていた。
屈託のない彼女は、素直な心で袋井を褒め称える。
「袋井くんって、律儀なんだねぇ~。そんなこと気にしてたんだ。大丈夫だよ、難しい依頼じゃなかったんだから。みんなだって、袋井くんがいなかったこと、全然気にしてなかったよ」
素直過ぎる心は、時に恐ろしい刃と化す。
もう何も言い出せない袋井は固まって、微妙な笑みを返すだけだった。
「それだけ?」
「……はい」
「そっかぁ~。じゃあ、もし他の人達に会ったら、袋井くんが謝ってたって事、伝えておくね。――気にしちゃダメだよ! 元気だしてね! んじゃ!」
敬礼にも似たポーズで別れを告げると、美月は去っていった。
途方に暮れて、小さくなっていく美月を見送る袋井。
その背後にスッと人影が現れ、袋井の首を両腕がホールドした。
「こりゃあ、どういうことだ!? 告白するって言ってたじゃねぇか、おい!」
袋井の背後には、先程まで物陰に隠れていた黒尽くめの男が立っていた。
二人の共通の友人であり、袋井のフラグ立てに協力し、最後のお膳立てまでしたこの男こそ――ルナくんこと――ルナジョーカー(jb2309)である。
「ギブギブ!」と袋井が腕を叩くと、ルナは袋井を地面に勢い良く落とした。
涙目になった袋井は地面に這いつくばったまま、渾身の思いで相手を睨みつけた。
「し、死んじまうよ!」
「んなもん、死亡フラグおっ立てたんだから、容認しろ」
「できるか!」
やれやれと肩をすくめるルナジョーカー。
ルナの方が年下のはずなのだが、いつも主導権はルナが握っている。
黒い髪に黒い瞳、焼けた肌に黒い服を好むルナは、常に黒い印象がまとわり付かせる。
帰還早々、ルナに見つかった袋井は、最後の仕上げとばかりに美月の前に立たされた。
当然、告白できるはずもなく。まして、袋井には恋愛感情を決める『それ』が見えている。
美月が姿を見せた時点で、袋井の失恋は確定していた。
「度胸ねぇなあ、袋井。砕けて、散れよ」
「散っちゃだめだよ! って、当たってもいないじゃないか!」
だが実際に、当たる前に散っている。
袋井に見えた『それ』では、美月に一切の脈はなかった。
「仕方ねぇ……。とりあえず、死亡フラグだけは成立させておけ。そうじゃなきゃあ、フラグ職人の方々に示しがつかねぇ」
「フラグ職人って誰だよ! っていうか、成立させていいフラグじゃないよ!」
ポキポキと指を鳴らし、黒いほほ笑みで袋井に近づくルナジョーカー。
腰が引け、這いずるように後退る袋井。
ニヤァっと笑い、袋井に殴りかかろうとした瞬間――今度はルナの体が空中にぶら下がった。
「申し訳ありません、袋井様。うちの猫の躾がなっておりませんで……」
ルナの背後には、まるでアンティークドールを思わせる可憐な少女が立っていた。
柔らかな物腰で立つ少女は、両手を揃えて、軽く会釈をした。
弱くウェーブのかかった銀色の髪と、軽やかな出で立ちが、まるでたんぽぽの綿毛ような儚さを漂わせている。
「斉さん……」
袋井は情けない表情のまま、なんとか足に力を入れ立ち上がった。
呼びかけられた少女は、顔を上げ優しく微笑みを返す。
斉凛(ja6571)、13歳。
まだ、幼さが残ってもおかしくない年頃でありながら、その佇まいは淑女を思わせるに十分な落ち着きを持つ少女である。
「おい、凛。誰が猫だって?」
「あら、ルナさんじゃないですか? 躾の悪い黒猫と勘違いしてしまいました。芽楼、離してさし上げて」
「了解なのです、メイド長」
飛びながらルナを持ち上げていたメイド服の悪魔が、手を離した。
ドスンと音を立ててルナは、地面に落下する。
音もなく自然な動きでメイド服の悪魔が、凛の側に降り立った。
どちらもメイド服を来ているのに、その容姿はとても対照的に見えた。
儚げな凛に対して、芽楼と呼ばれた悪魔はカッチリとした外見をし、巨大な剣を背負っている。
睦月芽楼(jb3773)は、白波のような銀色の髪と、深海の透き通った水のように白い肌が特徴的で、その背中からは、むしろ似つかわしくない黒い蝙蝠の羽が生えている。
二人とも、ルナジョーカーが経営する喫茶店の従業員である。
「痛てぇなぁ! 何すんだよ!」
「そろそろ開店の時間です! マスターがどこで油売っているんですか!」
「当店では、油単品は扱ってないのです」
「いいじゃねぇか、少しぐらい。袋井の力になってやりたかったんだよ」
「どう見ても襲い掛かろうとしていたじゃありませんか! 何を考えているんですか貴方は!」
「店内での、暴力行為はお止め下さいなのです」
「成り行きだよ、成り行き。袋井の根性を叩きなおしてやろうと思ったの! 男はな、いざという時、惚れた女を守る力が必要なんだ。わかるか、凛?」
「いいから、貴方はお店に来なさい! 一分でも遅れた場合、今日のお掃除はひとりでやって頂きます!?」
「それでは、これから競争を始めるのです。一番遅れた人が今日の掃除当番ということで――よーい、どん! 袋井様、おさらばなのです」
芽楼は丁寧にお辞儀をすると、颯爽と空へ飛んでいった。
「ちょっ、芽楼! テメエ、卑怯だぞ! 待ちやがれ!」
「どうしてわたくしまで掃除をしなくてはいけないの! 待ちなさい、芽楼!」
空を駆ける芽楼を追いかけ、ルナと凛は走り去っていく。
ポツンと取り残された袋井は「……相変わらず、嵐のような人達だな」と、呟きながら見送るほかなかった。
4
人の体を囲むように、矢印がクルクルと回っている。
袋井の目に映る『それ』は、普段は人の体にまとわり付くように円を描いて回っていた。
目の前を通過する人物が、知人と思われる誰かに近づくと途端に矢印は生き物のように動き出す。
知り合い程度なら、矢印のない一本線。
気にかけている要素がある場合は、一本線が矢印に変わる。
その上にほんの小さなハートが浮いているなら、LIKE程度の好きの意味。
そのハートが半分の形を成しているのならば、片思いをしている。
線が重なりあい、ひとつのハートを成しているのならば、両思い。
ハートが脈打っている場合は、すでに恋人である。
いくつか割れているハートを目にするが、恐らく失恋した場合であろう。
袋井から美月に放たれていた矢印にも、同じ物が乗っていた。
深くため息を付き、袋井はベンチに座っていた。
学園都市の至る所に設置されているベンチは、誰にでも安らぎを与えてくれる平等な存在であった。
(何のための能力だよ、これは……)
袋井は行き交う人々の幸せな笑顔と、脈打つハートを持つ恋人たちに呪われた視線を送っていた。
(アウルの新しい能力――じゃないよな、多分……。恐らく、あれが原因だろうなぁ~)
思い当たるフシは、ひとつしかない。
あの時受けた天魔の攻撃は、袋井に思いがけない能力を開花させた。
人々の愛を見せつけられる袋井は、失恋した痛手もあってか、頭のなかに呪詛の言葉しか浮かんでこない。
(リア充、爆発しろ!)
声に出せないその思いを、深々とため息とともに吐き出す。袋井のやるべきことは、それ以外になかった。
(どうした袋井雅人! お前はこんな男だったのか!? こんな思いを抱くために、この学園に来たっていうのか!?)
両手で頭を小突いて邪念を吹き飛ばし、袋井は通り過ぎる人々を眺めていた。
赤毛で幼げな少女と、金髪の優しげな少年が手をつないで歩いている。
袋井の能力がなかろうとも、二人が幸せなカップルであることがよく分かる。
悶々とした思いを抱く袋井など眼中にない二人は、よりにもよって袋井の隣に設置されているベンチに座った。
「川崎さんは、今日どこへ行きたいのですか?」
「ゾーイが行きたいところなら、どこだって俺の行きたい所だぜ!」
「あはっ、川崎さんはホント面白い人なのですね♪」
ルビーのように赤い瞳を細めゾーイと呼ばれた少女は、少年の片腕に抱きついた。
川崎少年は座ったまま胸をそらし、自慢げに荒い鼻息を漏らす。
二人の間には、当然のように脈打つ『それ』が眩しく輝いていた。
(すごいなぁ……あの二人。妬ましくなんか、妬ましくなんか、ないぞ、ちくしょう……)
横目で見る袋井の顔には、あみでも掛けたような黒い影が落ちている。
「最近の川崎さんは、ほんと絶好調なのですね」
「当然! ゾーイを守るためだったら、俺はいくらでも強くなれる! ゾーイが嫌いなものは俺がすべてやっつける! そう誓っただろ?」
「も~、川崎さんは、大袈裟なのですよ。何時までも一緒にいてくれれば、それでいいのですよ」
肩を寄せ合う二人は、ひなたぼっこをする子猫のように満足気な表情を浮かべている。
二人から溢れるアウルの光が、寄り添うごとに強くなっているように袋井には感じられた。
(どうして、こんなにこの二人がこんなに眩しく見えるんだ? 妬み――だけじゃないような気がする。そういえば、恋の力ってのを、聞いたことがあったような……)
袋井の脳を掠めるのは、数週間前に受けた能力を高めるための講義だった。
実技の筋肉教師が珍しく「手っ取り早い能力の上げ方を伝授してやる」と鼻息あらく息巻いたのを覚えている。
トレーニング第一主義の筋肉教師が、そんなお手軽な方法をあるなどと言い出すことにも驚いたが、その講義内容にも驚いた。
なぜなら、その講義タイトルが、『恋愛の極意』だったからだ。
この男のどこに恋愛のセンスがあるのか、講義を受けた全員が首を傾げた。だが、そういった能力の上げ方があるということを誰もが印象づけられた。
(そうか! これってもしかして、ものすごい発見なんじゃないのか!?)
袋井は勢い付いて立ち上がり、辺りを見回した。
沢山の人々を結びつける矢印と、その上に乗るハートたち。
それは、運命の恋人同士を結びつける、『赤い糸』のような存在。
袋井が見えているのは、人の恋を示す『恋愛線』と呼べるものだった。
(そうだよ! これは使える! 本当は両思いなのに、お互い気付けずにいるカップル。二人を引き寄せれば、これは大きな飛躍に繋がる!?)
袋井が特に興味を持ったのは、くっついたり離れたりして脈を打たずに漂っている綺麗なハートだった。
袋井は生唾を飲み込む。
【すみの】という看板が掲げられた焼鳥屋の店先で、鳥を焼いている和服の女性がいる。
その店先では、焼き上がりを待つ客に混じって、熱い視線を送る銀髪の青年がいた。
この二人には、しっかりとしたハートが見えているのに、遠慮しあうように、お互い近づこうとしない。
やり切れない思いが、二人の間で漂っているようだった。
(ああいう二人をくっつけること! それが僕に与えられた使命なんだ!)
自分の発見に興奮するあまり、袋井は我を忘れていた。
ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべながら、何の考えもなしに集団へと近づいていく。
(これはいい! これは、絶対にいい考えだ! 僕が二人の関係を教えてあげれば、きっと大喜び間違いない!)
焼鳥屋まで、ほんの数メートル。
自分を見失っていた袋井が、黒い集団に声をかけようとした、その時。
「何言うとんじゃ、ワレ! 六桜会、舐めてんじゃねぇぞ!」
「んだとコラ! テメエらこそ、お嬢とこに近づいてんじゃね! ぶっ殺されてぇのか!?」
「なんだと、テメエ!? 焼鳥屋が客を選ぶってのか? いい度胸じゃねぇか!!」
「テメエらなんざ、客じゃねぇ! テメエらにやるぐらいなら野良猫にやった方がマシだってんだよ!!」
さっきまで、不思議な笑みで語り合っていた黒服の集団は、一気に罵声を浴びせ合う任侠集団へと変貌していた。
「おもしれぇ……よほどぶっ潰されてぇらしいな!?」
「上等じゃねぇか!? 焼き鳥代は、テメエらの命で勘定してやるよ!!」
黒服の集団は、みな腰に手を回し、何か重いものを取り出そうとしている。
軽く手をあげ、不可解な笑みを浮かべていた袋井の顔がどんどんと青ざめていく。
今まさに何かが抜かれようとした瞬間、
「やめろ!」
「おやめ下さい!」
集団と店先から同時に声が上がった。
ひとつは、先ほど店先に並んでいた銀髪の青年。
もうひとつは、焼鳥屋の女性のものであった。
「他の客の迷惑になることはすんじゃねぇ! ぶっ殺すぞ、お前ら」
「あ、兄貴、そ、そんな……」
青年は、冷たい視線で男たちを一瞥した。
年齢や体格からしたら、どう見ても黒服の男たちのほうが貫禄があるように思える。しかし、青年の視線を受けた男たちは、冷や汗を垂らしながら硬直し、ガチガチと青ざめている。
「あなた方も、ここには来ないという約束のはずです。とっととお帰りいただけますか?」
「お、お嬢、これは、その……」
女性は穏やかに恫喝し、強い視線で黒服たちを見据えた。
凛とした真っ直ぐな視線を受けた男たちは、言葉を失い、酷く暗い表情になっていた。
二人の恫喝を受けた黒服たちは、金縛りを受けたように動かなくなった。
その間を縫って銀髪の青年は前に出ると、和服の女性の前に並んだ。
近づくに連れ二人の『恋愛線』は、より一層キレイなハート型を描く。
「澄野さん」と青年は和服の女性に優しく声を掛けた。
鳥を焼く炭火のせいか、女性の顔がほんのり赤くなったように見えた。
真っ直ぐに身を正した青年は、女性の目を見詰めた後、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません! このような事が二度と起こらないよう、俺はもう、ここには……来ません」
深々と頭を下げた青年を見詰める女性の表情が、みるみる青ざめていった。
目端にほんの少し涙が浮かび、表情がプルプルと震えている。
「由野宮さん……それは……」
「……ご迷惑をお掛けしました」
頭を上げても、青年は女性の表情を見ようとせず、くるりと向きを変えた。
黒服たちは、何かを確認し合うように目線を合わせると、作為的な微笑と舌打ちかね合わせ、別々の方向へと分かれていった。
ほんの一瞬、銀髪の青年と焼鳥屋の女性は、寂しそうな視線を合わせたが、すぐに顔を反らした。
その場にはぽつんとひとり、袋井だけが、取り残された。
袋井の耳に街の雑踏が蘇ってくると、カクカクと袋井の足が自然に震え始めた。
焼鳥屋の女性は青い顔で立つ袋井に気付くと、手のひらで目元を拭うと、すぐに柔和な笑顔を取り戻した。
「いらっしゃいませ、お客様! なにをご注文でしょう? あの……えっと、怖かった、ですよね?」
泣きながら袋井は、身の置き所がない思いで財布を開けた。
袋井の使命は、前途多難である。