ひと恋う歌
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結局が歌うことしか能のない
何の役にも立たぬこの身が悪いのです
他にひとつとして叶わぬ、
それ以外の総てにおいてままならぬ、己が不具の所為なのです
森羅万象この世の果てまでも歌い上げると
たしかそう評されたのは金と銀と硝子の宮殿で
それから二度、お招きにあずかったことを記憶しておりますが
さて
何を歌いましたやら
水晶の回廊が素足にひどく否定的だったのは確かです
鏡と見紛う乳白の壁からは 毒蜂の羽音が低く唸りをあげておりました
磨き上げられた大広間に 絹と石と抽出された匂いとが 幾重にも遠巻きになって
だというのにわたくしは
わたくしはただ茫洋とした心地であの方の呼吸に耳を澄ませていたのです
その半ば閉じられた眼は まるで底光りする鎔けた鉄のようで
血に塗れた醜悪な冠に全く似つかわぬ紗の御髪は 立ち上る悪臭を掃い
それと見えぬほど微かに動かされた唇の、それでいて確かに放たれた晶音の、
艶やかさと云いましたら譬えようもなく
身悶えずにはおれぬほどの狂おしさに呑み込まれたわたくしに
あの方は一瞥も下さることはありませんでした
けれどそれを知って何の不満がありましょうか
不遇の恥辱を補ってあまりあるほどの至福
まことのおとを
きいたのでございます
ひそやかにしたたかに刻み続けられるそれは
いのち
そのものに他なりません
おそらくはその音を感じるなど
地を這い生を貪る限り、あってはならぬこと
ですからわたくしは歌ったのでございます
その罪の前に
たったひとつ許された わたくしのいのちを 晒したのでございます
出来合いの詩では足りず そもそも言葉など無意味
のちに異国の唄と そう称されたそれの正体を
けれどあの方だけは過たず 見抜かれました
その吐息に混じった微かな熱に 気付かずにあれるだけの清廉は
わたくしとは無縁のものでした
嗚呼 まさか
そのとき わたくしの内腑を駆け巡った愉悦が
かような醜態を以て世に出ようとは露ほども!
わたくしの庵は城壁の外 蒼の森にふた足ほど踏み入れた大樹の許にあり
雨風をかろうじて和らげるためだけの ささやかなものでございます
城下の忙しない喧噪よりも 樹木の子供らの他愛ないおしゃべりを と
勿論わたくしがそれらに加われる道理もありませんのに
けれど その愚かしい性ゆえに 人の創り出す音にはひどく敏感でありますれば
気付いたのでございます
まだ葉の揃わぬ夏草を踏みしめるやわらかな歩み
侵略よりも力強く 浸透よりも奥深く
南へ向くあの窓からならば それと悟られずに逃げることも可能だったでしょう
そう、あの方の奏でる未知の旋律に 心憧れていなかったならば
口実と成り得る程度の伺いもなく
唐突に開け放たれた戸口から 若草の汁の匂いが舞い込み
そしてそれが霧散するのを待つことなく
再び閉め切られた空間の中に 全ては再びの沈黙を湛えました
そのひとを、除いては。
「名を」
それが持つ意味よりもまず
遮るものなき月夜の湖面を震わせたような響きに
数瞬 喪心し
「お前の名を聞き損ねた」
重ねての問いかけに わたくしは
圧し出だすように震え掠れた応えを
「 」
それがわたくしの功罪
畢竟、歌うことしか能のない
我が身の無力が罪なのです
ただひとつ許されたそれを
ただ一人のために捧げようなどと大それたこと
この身がやがて溶け崩れるまで
この喉がいつか涸れ砕けるまで
その最期のひと息までを
すべて貴方に などと
あれは突然、
けれど兆しならば本当は疾うに訪れていたのでございます
それは 歯車の廻る音
ひと筋の乱れもなく 一律に 一心に
まるで呼吸と同じように
ひたすらに廻転する 世界の動力
我が心の逝く末など些事
理は揺れることなく
必ず誰かが、どちらかが
ならば惑う術など何処にありましょう
比するものなど有りはしないと
あの方はどうしても聞き分けて下さらなかったけれども
それならばそれで構わないのです
あの方に惜しまれるそのことの
途方もない甘さと陶酔を
この身に満たして逝くことが叶うのですから
あまりに深き快楽に
拭うべくもなきその業に 身も世もなくたゆたい
あまつさえ音に聞く恒久の楽園を擬えた 私の愚かさは
確かに 裁かれるに足るものでございました
そして その日は日常のうちに刻まれたのでございます
たとえば、特別に誂えた衣装の一つもなく
たとえば、特別に残された最後の託けもなく
秘めたる戀、とは聞きますが
私のそれとは相容れぬものでございました
私がただそこに在った証に
私の想いが 名付けられたものであった証に
愛しています と一度だけ伝えるそれが
何よりも深く醜くあの方を傷つけようとも
それもまた、私の昏き悦びとなることでしょう
秘めたるは、いつか明かすそのときのために
過たず一閃の痕を刻み込むそのためだけに
刃は惰性の内にも砥がれ、
風は裏切りを孕みながらも凪ぎ、
陽は荒れ野の枯れ草を焦がして溶け、
星がその心臓とともに息づき、
それらが刻む不変の拍と拍との間隙を盗み
命は一度だけ許された背信を決行する
きっと彼の方はまどろみの中で不覚を偽証しているのです
気づかぬふりで見逃して下さる
聖句のうわべをなぞりながらその身を焦がす咎人を
瞼の彼岸より透かしながらも
唇の端に微笑みを滲ませていらっしゃる
心残りと言ってよいなら
あの方の名を
あの方が眉をひそめ厭うその文字の並びを
いっそ その意味から解き放ってしまいたく存じました
貴方の口から
わたくしの耳に
そしてわたくしの喉で
すべて 歌ってしまいとうございました
愛などというものがあるとしたら
わたくしが 愛していますと 歌ったその意味は
貴方の名の容をしていたに 相違ないのです
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******the end*******
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