2。
歩いて15分もかからないぐらいだったか。
ここ、かな。
地図とそれを何度も見比べる。やはりそうらしい。地図の示す目的地はここだろう。
何をぐずぐずと、なんて思うだろうが、普段の俺なら。しかしなかなかインターホンに手が伸びないのには理由がある。
違和感があるのだ。だって、いかにも…
普通すぎるのだ。
家が七件連なった小さな団地から少し孤立した、至って普通の一軒家。
ここが、地図に汚い字で『ココ!!』と示された場所に建っているのだ。
孤立していると言っても、隣の家からの距離は十メートルほどしかない。大きさだって一般的なものだ。
本当に二万円貰えるのか…?
不安よりも不信感が増してくる。どちらにせよ呼び鈴を鳴らすには躊躇う原因になるのだが。
「あの……何してるんですか、そこで。」
後ろから急に話しかけられた。
驚いた。もう、そりゃあ体がビクゥ、て跳ねるくらいに。恥ずかしい。
誰だ、脅かすなよ!と八つ当たり甚だしいが、悪意を持って振り返る。
だが、そんな感情はしゅん、と潔く引っ込んでしまった。
そこに立っていたのは、なんとも綺麗な女性だったから。
だが、呑気な事を考えているもんじゃない。彼女はまさに今、そんな上品な顔立ちを僅かに歪め、明らかに不審者に対する目で俺を見てきている。
「いや、この家に用があって…」
「ここに、ですか」
視線が痛い。
…アルバイト、なんて正直に言えないよな。
だって俺、中学生丸出しの見た目ですから。
「父親の紹介で、ちょっとしたお手伝いを…」
「お手伝い?…まさか。だって貴方、中学生…よね?」
中学生丸出しですよね。やっぱりですよね。
でも、男っていうのはちょっとは大人びて見えてほしいものなんですよ。
とは言え、嘘をつく理由もないので「はい」と素直に言うわけだが。
それよりもこの人は、もしかしなくてもここの家の人なのだろうか。
先程は通りすがりに俺を不審に思って話しかけてきただけかと思っていたが、そうではないようだ。
それにしてもまた、彼女もなんて至って普通なんだろう。確かに美人という点では普通ではないが。
「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「山下朝輝です」
「そう、ですか…。やましたあさひさんですね。確かに旦那様から伺った名前と一致します」
ここで彼女の表情が漸く和らぐ。
「ごめんなさい、年齢は聞かされてなかったからまさか中学生の方が来るとは思っていなかったの」
言ったあと、彼女はひっそりと顔をしかめた。
中学生を雇うなんて何を考えているんだ、とでも考えているのだろう。
当然だ。俺もそう思う。
どうぞ、と家の中に通される。綺麗に片付いているが、中も狭くもなければ広くもなくだ。少し肩の力が抜けた。
「申し遅れましたが、私はこの家に使用人として勤めている阿笠と申します」
「しようにん?」阿笠さん、と名乗った彼女は頷いた。
やっぱり金持ちの家なんだ。にしても何だってこんな質素なんだ。
手早くお茶を用意してくれた阿笠さんに、話の要を切り出す。
「ところで、仕事内容というのは?」
人の目が点になるというのは、こういう事を言うのか。
俺も目が点になって、ると思う。
「もしかして、聞かされてないのですか?」
はい、と返事をする前に阿笠さんは苦笑いを浮かべた。聞くまでもないと思ったのだろう。
そして俺の心の中がクソ親父に対する殺意で溢れていたのも言うまでもないだろう。
じゃあ一から話さなければいけませんね、と阿笠さんも俺の向かい側に腰掛けた。
「結論から言うと、朝輝さんの仕事は、引きこもりのお嬢様をここから出す事です」
「なるほど、…ん?」
全然なるほどじゃない、何だそりゃあ。
「旦那様…もといお嬢様のお父様は、〓×社の社長でして…あ、〓×社については朝輝さんもご存知かと思いますが」
「はい、こんな俺でも知ってるすごい会社ですよね」
金持ちなんてもんじゃない、大金持ちだった。
なんで貧乏の親にこんな人間との繋がりがあんだよ。正しくは繋がりの繋がりだけど。
「お嬢様は昔はよく学びよく遊ぶ、明るい性格だったそうです。
私はまだ勤めて日が浅いので幼少の頃については存じ上げないのですが…。けれど、小学校五年生の時以来、家から出なくなったそうで…」
「何故ですか?」
「理由は何方にも分からないそうで。何しろ、お嬢様は人と話そうともなさらないので……」
「……そんなオジョーサマをどうやって引き摺り出せと」
阿笠さんは苦笑いしたあと、顔をしかめた。
「私には無理なので。…お嬢様のお相手は」
「ほー」
「…それで、そんなお嬢様をそのままにしておくのもいかないと、旦那様はここにお嬢様専用の家を建てまして…」
「そして、現在に至ると」阿笠さんは頷いた。やー、表情がなんて他人事そうなんだ。
「とりあえず一通りは分かりました。まあ、オジョーサマを脱引きこもりさせればいいということでしょう」
部屋はどちらに、と聞けば二階に行ったら右へ、と口頭で説明した。部屋についてくる気もないようだ。
階段をのぼる時、俺はまた溜め息をついた。
嫌なもんだ。
子供を金稼ぎに利用する父親も、臭い物には蓋の如く娘を放置する父親も。
それだけじゃあない、自分は関わりたくないからと人任せな給料泥棒も。
勿論、悲劇のヒロインを踊ってる癖に金に守られぬくぬく籠ってるヤツもだ。
………。
ああ、イライラ…イライラしてぐるぐるする!
なんでこう屑人間ばかり集まった、人の模範になるような人間はいないのか?
いや、どこもこうなのか、どの世界どの宇宙もそんなものなのか、どうなんだ!
怒りまかせに突き当たりの壁を殴ろうと拳を上げる…が、瞬時に理性が働き、それはトンと虚しい音をたてて壁に触れるだけだった。
人の家を壊すのはよくない、というのは偽善。本音は修理費が嵩むから。
しかし、当然それで俺の苛立ちが収まるわけでもない。
俺の怒りの矛先は右の扉の向こう側の、呑気に殻にお閉じ籠り中のオジョーサマへと向かった。
正しいと言えば正しい矛先だ。
この際だから言ってやろう。
怒りをぶつけるのは簡単だ。溜め込むのも。
ただそれを向かわせる先を考えられるかどうかが人間出来ているか出来ていないか、差が付く点だ。
やってやろう、俺は利口な感情の使い方を。
言ってやろうじゃないか、俺の言いたい事。
万を辞して、飾り気も何もない扉のドアノブを乱暴に開き、俺は叫ぶ。
押し殺しすぎて最早惨殺状態の感情を、一言に込めて…
「屑人間が!俺を見習えええええ!」
「…どういう返答が正しい選択肢なのか分からない、とっても困ったのだ。」
セミの声がうるさい夏の話である。
これが俺、アサと、
目の前の少女、コマの初めて交わした会話なのであった。