間に合わなかった
――疲れ具合が走ってるときと変わんないしいいいいぃぃぃぃ!
新は半ばヤケクソになって自転車をこいでいる。ペダルの動きに同調するようにギイイイイィィィギイイイイィィィと謎の摩擦音が断末魔の叫びみたいに鳴り響く。
滝川は三倍のスピードだとかのたまっていたが、三倍なのはペダルをこぐときに必要な足の力だった。踏み込む際には立ちこぎの状態で全体重をかけてぐいぐいしなければならない。そのくせスピードは通常自転車の三分の一と言っても差し支えないほどに軽快さに欠ける。ハンドルも浮き出た錆が邪魔しているのかえらく回しづらい。
商店街を抜け、国道に出た。海が眼前にきらきらと光って波打っている。
新は進路を右に向け、車道の端を突っ走る。横から強い潮風が体と自転車にぶつかり、ハンドルをとられて危うく車にぶつかりそうになる。ビービーッとけたたましいクラクションがすぐ近くを走っている車から発せられる。
――ごめんなさあああぁぁぁぁい!
――でも急いでるんでええええええぇぇぇぇぇす!
――間に合えっ間に合えっ間に合ええええぇぇぇぇっー!
間に合わなかった。
新は今日子の家の前で固まる。インターフォン越しに今日子の母親の声が事実だけを簡潔に述べている。
『ごめんなさいねぇ、今日子なら五分ぐらい前に駅に行っちゃったの』
「五分前ですか!?」
新はポケットに突っ込んでおいた腕時計を引っ張り出す。その高級そうな腕時計は二時五十五分を示している。「あの……今日子さんは三時に家を出るって言ってましたけど……」
『ええそうよ。今三時五分だから』
――はい!?
時計を持つ手が震えを帯びる。――この時計……十分遅れてる……。
『新くん? どうしたの? 今日子と何か約束してた?』
――はい、大事な約束をしてました……。
新は時計を握り潰してやろうかと思ったけど、高級なだけあって硬い。呆然と今日子の家を見やる。二階の今日子の部屋の窓はカーテンが閉まっていた。
『新くん? もしもーし?』
今日子の母親の間延びした声が場違いに漂う。
――僕が……僕が……うじうじ悩んでたから……全部僕のせいだ……。今日子はもう遠くへ行っちゃうんだ……。
『新くーん? もしもしもしもーし?』
今日子の母親の声を無視して、新は赤い彗星号にまたがる。だが駅までは途中バスを使う。バス停まではここから走ればぎりぎり五分で間に合う。そして三時五分に駅まで行くバスが来るはず。
――駄目だ、自転車じゃ追いつけない……。
新はハンドルに頭を委ね、俯く。額に錆が当たってざらざらした質感が不快だった。――ああ、そっか。そういうことか。だから、三時なのか。
家からバス停までかかる時間、今日子はそれを考えて、ギリギリの時間設定を新に示したのだ。おそらく電車の時間も上手く組み合わされているのだろう。
でも、気持ちはもう東京から帰ってこないと思うよ。
今日子の声が頭の中で再生される。聞きたくもないのにそれはリピートされ続ける。その声をBGMにして、今日子が手を振っている場面が上映される。スクリーンの中の今日子は手を振ったまま小さくなっていく。
新は思わず虚空に向かって腕を伸ばす。
指先まで思い切り。
今日子を感じるために。
――今日子……行かないで、く
そこで新の意識は強制的に現実に引き戻される。伸ばした腕だけは現実の行動だったらしく、今はそれが鎖の役目を果たしている。――ってナニナニナニ!?
指先に感じるのは今日子ではなく、硬い質感の何かだった。新は今それに引っ張られている。自転車の三倍、いやそれ以上の速度で。
物凄い風が顔に吹きつけ、目が開けにくい。目を細めて前方を見やると、自分が車のリヤウイングに捕まっているのがわかった。かなり大きいリヤウイングで、明らかに普通の車ではない。スポーツカーだ。しかも新の眼前には瞳が異様に大きな緑色の髪をした女の子が描かれている。
新の脳裏に、県営駐車場に停まっていたスポーツカーが浮かび上がる。
――あの痛車だっ!
新が腕を伸ばしたところを、痛車が通りかかり、彼は藁をもすがる思いでリヤウイングを掴んだのだ。
痛車はブオンッと唸り声を上げ、速度をさらに加速させる。新は自転車ごと引っ張られ、自転車としてはあり得ない速度で住宅街を抜け、国道を犬ぞりのように移動している。
――止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めて止めてっ……あ。やっぱ止めないで進めい!
痛車が向かう方角に、駅があるのを思い出した。




