オタ車じゃなくて、痛車です
*
現在時刻、十二時半。
新は相変わらず砂浜へ続く階段の段に座っている。ぼんやりと海を眺め、思い出したようにおにぎりを口に持っていく。「はむはむ」味がわからない。
新はなんとはなしにジーンズのポケットから携帯を取り出してみる。が、バッテリー切れで画面はお亡くなりになられていた。――どおりで鳴らないわけだよ……。いなくなったんだから紀伊介さんから連絡があったりするはずだし……もしかしたら今日子からだって……。
ぶおん!
突然のエンジン音に、新の意識は現実に無理やり引っ張られる。何かと思えば、すぐそこの県営駐車場に停めてあった痛車がエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだのだ。痛車は駐車場を際どい運転で飛び出し、周囲の車からクラクションを鳴らされながらも強引に国道の車道に躍り出て走り去っていく。
「はぁはぁはぁ……ふー、あら、オタ車って目立つわね」
「えっ……春日井さん!」
後ろを振り向くと、春日井弥生が歩道に立って遠ざかる痛車を見送っている。走ってきたのか、苦しそうに肩で息をしている。新の視線に気付いたのか「ちょっとこの辺をフルマラソンしてたのよ。なかなかターゲットが見つからなくてね」と春日井は息を整えながらよくわからないことを言った。
「隣、いいかしら」
「は、はぁ」
新の隣に春日井が腰を下ろす。新は横目で春日井を窺うと、目が合ってしまった。視線を外そうと下を向くと、底の知れぬ谷底がその存在感を発揮しまくりだった。――ていうかいつもの格好と違うよ。なにこの秘書みたいなスーツ! シャツのボタン開けすぎだし! いやいや大きすぎてボタンが閉まらないのかもウオーン!
目のやり場に困り、結局春日井と目を合わせる。春日井がじっと見つめてくる。
「……オタ車じゃなくて、痛車です」
沈黙に耐え切れず地味な間違いを指摘して間を持たせる。
「あと二時間半ね」
無視された。
「えっ――」
「今日子ちゃん」
「ど、どうしてそれを……」
「私は探偵。紀伊介さんからの依頼で、あなたを捜していたの」
「探偵? 紀伊介さんの依頼?」
新の頭の中が洗濯機に放り込まれたようにぐるぐるする。わけがわからない。
春日井は困惑する新に構わず続ける。
「紀伊介さんが今朝の六時半ごろにあなたの部屋を覗いた時にはもういなかったらしいけど、いったい何時に民宿を出たの?」
「……四時過ぎ、ぐらい。午前の」
「それからずっとここで?」
「まあ、基本的には。ちょっとコンビニにも寄りましたけど」
――三時間耐久立ち読みにチャレンジしましたが。
「ふむ、ちょっと入れ違いになったみたいね。私が朝ここを通ったとき、あなたはいなかったし。それにしても呆れた……。よくもまあそんな長い時間……いや、これも海の力なのかしら」
「海の力?」
「あなたのおじいさんが言っていたのよ。ワシらは海に縛り付けられてるって」
「……縛り付ける」
新の脳裏にあのイメージが蘇る。海から伸びる腕、それが新に絡みつき、一歩も動けなくなる。一歩も。――紀伊介さんが、そんなことを。でもどうして紀伊介さんは今日子のこととか知ってるんだ?
「そうよ。紀伊介さんは海に縛り付けられている。あなたも」
「僕も、ですか」
「ええ、今のあなたを見れば、それがよくわかるわ」
「ていうか、だから何なんですか。春日井さんが探偵だとして、紀伊介さんの依頼って何ですか? さっきから意味がわから――」
「実は何も言われていないわ」
「は?」
「ただ、依頼がある。新がいなくなった。としか言われていない」
「じゃあそれ、依頼じゃないですよ」
「文脈で判断しろってことじゃないかしら。紀伊介さんとのこれまでの会話を鑑みるに……」
春日井が顔をずずいと新の顔に寄せてくる。「依頼はこうよ。新くんを今日子さんのところに送り届ける」
きーん、と耳鳴りがしたような感覚が新を通り過ぎる。春日井が口にした言葉がとても鋭利で、痛い。選択肢が一つ、音を立てて崩れていく。民宿と紀伊介さん。
――でも……僕は……。
「……もう、いいんですよ」
新は投げやりに返答する。「こうやって海を見てると、なんだか落ち着くんです。それに紀伊介さんは僕がいなくても大丈夫だなんて言ってますけど、実際僕がいないとご飯だってろくに作れません。僕がいなくてはあの民宿は続けていけませんよ」
「そうやって、海に縛られていくのよ」
「……………………」
新は何かを言おうとするが、返す言葉が見つからずに黙り込む。そして選択肢どころか言い返す言葉さえも崩れたのかと、なんだか無性に自分が情けなく感じる。
と、そのとき……。
「あー! おっぱい発見! おっぱい発見!」
歩道のほうから明らかにその場の空気に相応しくない声が殴りこんできた。見ればアフロ兄弟が声を上げてこちらを指差していた。彼らの背後には自転車を押したお巡りさんが、しかめ面で接近中。
「なんだろ、こっちを指指してますね」
新は首を捻り、春日井を一瞥する。春日井が小さく舌打ちをしたところだった。――なんか春日井さん、いつもと雰囲気違うなぁ。