田中多菜香は走っている
*
自称春日井弥生、またの名を田中多菜香は走っている。海沿いにのびる国道を。左側は砂浜と海、右側は車道。海は穏やかに波音を奏で、車道を走る車は猛烈なスピードでもってエンジン音を唸らせている。左右で空気の流れがまるで違う。
その真ん中を、田中は駆けている。
汗が体中を包囲してじゃばじゃば流れていくのを感じる。気持ち悪いったらない。しかも今の春日井は仕事中にいつも着ているスーツを着用、シャツの上部のボタンは胸の大きさの関係上外して風が吹き込んでくるが、それでも暑い。――でもこの格好しないと気合入らないんだよねぇ。ああ、急がないとっ。
そう、文句も言っていられない。今回の依頼にはタイムリミットがあるのだ。
新のブログを読んだ限りでは、今日子という女の子との約束の時間は午後三時。それまでに新は今日子のところに行かなければならない。家出したということは、まず間違いなく今日子の家に行っていると見ていいだろう。
そう、田中は今日子の家に向けて走っているのだ。
場所は紀伊介に訊いておいた。今日子の家と、それに新がよく行きそうな場所を。田中が今走っている場所の近くには、まさにその新がよく来る場所の一つ、コンビニがあった。コンビニから国道を挟んだ向こう側には海があり、砂浜へ降りるための階段がある。新はよくそこに座って海を眺めているとのこと。
田中はふとそのことを思い出し、走りながら階段のほうを一瞥するが、新らしき人間の姿はなかった。国道を挟んだ向こう側にはコンビニの看板がかろうじて窺えるが、搬入のトラックが来ていて店の姿をすっぽり隠してしまってよく見えない。
――まあとにかく今日子さんの家に行くのが先決だわ。コンビニとかいちいち回っている間に新くんが今日子さんと東京に行ってしまうかもしれないし。……そもそも紀伊介さんが言っていたコンビニが本当にここなのか確証が持てないのが問題ね……。
そう、田中はあまりこの辺の地理に詳しくないのだ。なにせほとんどの時間を読書に費やしていたのだから。
――ていうか、あつーい……ってなんじゃ!?
思わず紀伊介口調を脳内で誤爆させてしまった。でも田中をそこまで混乱させるほどに、その車は異彩を放っていた。
――ええと、なんだっけ……ああいう車のことを……オタ車?
惜しい、痛車である。だがオタ車というネーミングも的を射ているような気がしないでもない。
さて、痛車である。田中の度肝を抜いたそれは、海岸沿いの県営駐車場に停めてある。それだけでも物凄く目立つのに、その持ち主らしき男がボンネットに突っ伏してうおんうおんと泣き声をあげて泣いている。某国民的青い猫の同居人の少年ばりに声を響かせて涙をだばだばと垂らしている。なかなかあのようには泣けないよね……と田中は思わず足を止めて見守ったが、すぐに本来の目的を思い出す。
――いけないいけない。あんな下種な男を鑑賞してる場合じゃないわ。大人は秘密道具無しで事態を打開しなければならないのよ!
田中は今日子の家へと急ぐ。
思っていたよりずっと時間がかかってしまった。途中で道に迷ったせいだ。――というか紀伊介さんの説明が悪いのよ。
今日子の家は国道を商店街とは逆の方角へ進んだ先、そこに広がる住宅街の一角に構えていた。海からはかなり離れているから、波の音は届いてこない。
今日子宅は瓦屋根の古い日本家屋で二階建て。庭もかなり広く、塀があってよく見えないが、間違いなく縁側があることだろう。
――縁側でスイカ食べたいなぁ。
故郷と幼い日の思ひ出にしんみりする田中だが、周囲のチェックは怠らない。
まずは今日子宅。
新が来ている可能性は十分に考えられる。塀と言ってもさして高くはない。当たり前だが有刺鉄線で囲われているわけでもないのだ。男子高校生なら難なく乗り越えてしまえることだろう。その後携帯で連絡を取り合い縁側から侵入、いや、早朝なら家族がまだ寝ているだろうから堂々と玄関からだって入れるだろう。
――ふむ。
続いて周囲を確認。
なんともちぐはぐな印象を受ける住宅街である。今日子宅のように昔からここに住む一家、それに近年建てられたとおぼしきいかにも量産されたような建売住宅。それらがシマウマの皮膚みたいに交互に立ち並んでいる。――近くに公園はないわね。
第二の可能性、それは新が今日子宅を前にして怖気づいてどこかに身を潜めているのでは。今日子宅周辺はぐるりと歩いたが、新は見当たらなかった。おあつらえ向きに公園でもあればまず間違いなくベンチに座って頭を抱える青春新を拝むこともできただろうが、そんな公園はないらしい。
――ふむ。ということは……今日子という子の部屋、かしら。
田中は今日子宅を見やる。
表札には『天羽』とある。
――さて、どうしようか。新くんが来ているにせよ、来ていないにせよ、ここで待つのが得策……かしら。新くんが今日子さんと一緒なら午後三時に出てくるでしょうし、来ていないとしてもいずれここに来るでしょう。ふむ。でも既に今日子さんとどこかに行ってしまっていたら……どうしよう……。
田中はそこで固まる。こんな差し迫った依頼は初めてなのだ。いつもは浮気調査やら素行調査、果てはストーカー対策からペット探しまでやる。どれもここまで厳しい時間制限はない。
こうしてる間にも時間は過ぎていく。
もしかしたら新は『民宿熊島』にひょっこり帰っているかもしれない、という楽観的な考えを浮かべてみるも、あの置手紙の文面を思い出して浮かんだ考えを撃ち落す。
日差しが田中を焼いていく。――しまった……日焼け止め塗ってない……あーうー。
などと死滅する皮膚細胞を嘆いていると、今日子宅の二階の窓ががらりと開けられた。窓から一人の女の子が顔を出し、ぼんやりと空を眺め始める。年頃は新と同じぐらいに見える。間違いない、あれが今日子だろう。
――って、あの子じゃない!
田中は砂浜で見た美少女を思い出す。回想の中の美少女と窓から空を見ている美少女の顔が一致する。――新くんめ……。
なぜか新に腹立たしさを覚える田中。それから電信柱の影に身を潜め、美少女をつぶさに観察する。大きな目が、捉えどころのない何かを求めているように見える。――私が今日子さんの立場なら、きっと同じ目をする。ふむ。新くんは、間違いなく来てないわね。
田中は確信する。今日子の表情から察して。
さて、待つか。……待つの? 私。ううん。
田中は腕組をして思考をめぐらす。暑さが思考を時折バグらせスタート地点に戻す。――あーうー皮膚がー。いやいや本当にどうしよ。紀伊介さんの依頼を忠実に守るのなら、どう考えてもここで張っていればいいと思う。もし新くんがここに来たら、確保して担いででも民宿に連れていけばいい。でも、ん? 待って。
田中はそこで紀伊介の依頼内容を改めて思い出してみる。
――よく考えれば、紀伊介さんには一度も『新を連れ戻してほしい』なんて言われてない。『新がいなくなった』としか言われていない。
そして田中はさらに思い出す。紀伊介の若い頃の話を。
『ワシらは海に縛られとるんじゃなぁ』と。
――ワシら? なぜ複数形?
今になってそのことに無視できない引っかかりを感じる。紀伊介さんと、あとは……………………そう、そういうことなの。ふふふ、なーるほど。
田中は今日子の家を後にし、新を捜しに向かう。
現在の時刻、午前九時五十分。
午後三時まで、あと五時間十分。




