でも、気持ちはもう東京から帰ってこないと思うよ
――あー、やっぱり今日子と一緒だといいなぁ。
横目で今日子を一瞥する。今日子は麦藁帽子を胸に抱き、今は頭を晒している。風が吹いて今日子の長い黒髪がフワッと舞い、なんだかよくわからないけど良い匂いが香ってくる。シャンプー?
浜辺では別のカップルがフリスビーに興じている。彼氏が投げたフリスビーを、彼女が恐がりながらもキャッチ。たぶん、彼氏が手加減しているのだろう。
「今朝、うちの近くにいたよね」
新は口を開く。
「あ、見られてたんだー。声かけてくれればいいのにー」
「ごめん、お客さんの部屋を掃除してたからさ」
「お客さん、か」
「……」
地球の重力が十倍になったかのような重い沈黙が降りる。ふとした会話の中に地雷があることに、新は心のヒットポイントを削られる。――前はもっと気楽に話してなかったっけ……。もっと、思いつく言葉をぽんぽん放ってなかったっけ……。
「ねえ、新。わたしね、明日、東京に行くの」
今日子が思い出したような口ぶりでぽつりと呟く。その小さく細い声音が、新を突き刺す。新の心に大ダメージ。
「えっ、なんで!?」
「従姉が今大学二年で一人暮らししてるんだ。前から遊びに来なよって言われてて。行きたい大学のオープンキャンパスもあるみたいだし、丁度いいかなって」
「そ、そうなんだ」
――そりゃそうだよね。高校三年の六月に転校なんてあるわけないよなぁ。いやぁ焦った焦った。あっはっは。
「私、帰ってこないかもよ」
――なんてこったい!
「えー! 高校はどうするの!?」
「冗談だよ」
「な、なんだ。驚かさないでよ」
「でも、気持ちはもう東京から帰ってこないと思うよ」
「……」
またも重い沈黙が投下される。目の前には海、青空、潮風と、恋人たちを引き立てる条件は揃っているというのに、新と今日子の間に流れる空気はヒマラヤ登頂を目指す山岳隊のベースキャンプばりに寒く険しい。
「新」
「……なに?」
新は今日子のほうを向かずに返事を返す。右頬に、今日子の視線がぶつかるのが感覚でわかる。
「明日の十五時までに答を示して。私と東京を選ぶか、紀伊介おじいちゃんと民宿を選ぶか」
「そ、そんな急に決められないよっ。もう少し時間を――」
「駄目。もう待てない。十五時までに決められなかったから……別れよ」
「わ……わ……わか……れ」
「明日の十五時にわたしの家に来て。もし新が来なかったら、わたしは東京に行くから」
今日子は立ち上がり、お尻を軽くはたいて麦藁帽子をかぶる。階段を上がり始め、立ち止まる。「じゃあ」
今日子が鳴らすサンダルのカツカツという音が遠ざかっていく。
残された新は、しばらくそこで潮風を受けていた。心のヒットポイントは瀕死の状態だ。
浜辺でフリスビーを楽しんでいたカップルは、いつの間にかいなくなっていた。