ワシらは海に縛られとるんじゃなぁ
『民宿熊島』に宿泊して二日目のことだ。
田中はぼーっとすることにも飽きてしまっていた。浜辺で海を眺めるのも悪くはないけど、一日中凝視していると入水自殺する人の気持ちにシンクロしかけた。そんなシンクロ率は上げたくはない。
けれど暇を潰せそうなものを田中は持ってきていなかった。必要最小限以下の装備でやって来たのだ。必要になったら現地調達すればいい、と。
しかし民宿から商店街までは歩いて三十分以上はかかるらしい。その上場所もよくわからないから迷うかもしれない。――ていうか、歩くのが面倒……。仕事で散々歩いてたし、もう歩きたくないよ……。
手近なところで何か暇を潰せて且つエンタメに富んだものをないかと、民宿内を彷徨ってみた。屋根裏部屋への階段を発見、そこを探索してみるも、埃っぽくてダンボールが天井まで積まれただけの部屋だった。おそらく数十年は熟成されたであろうよどんだ空気が埃やその他微生物と共に舞っているようで、田中は入って二分で撤退した。
結局、手近なエンタメはリビングの本棚に収納されていた。数十年から一世紀以上前のエンタメが。
本棚の本を読んでいいかどうかわからなくて紀伊介に訊いた。
「あの、ここの本、読んでもいいですか?」
「…………」
すると紀伊介は田中の胸をじろじろ見てきた。ぐいっと胸を張ってサービスしてみた。紀伊介は快く本を貸してくれた。いつでも読んで構わん、とも言った。ちょろい。こういうとき、自分の胸のふくよかさに感謝だ。肩が凝って大変だけど。
さらに紀伊介は田中が訊いてもいないのに若い頃の話なんかも始めた。
なんでも、紀伊介は若い頃小説家になるべく上京、某有名私立大学に通いながら小説を投稿、卒業後もアルバイトをしながら小説を投稿する生活を送っていた。だが民宿を経営していた父が死に、体が弱い母だけになったため、紀伊介は故郷であるこの地に帰ってきて、実家の跡を継いだ。当初、小説の投稿は続けていたが、のんびりとしたここの生活を続けているうちに、だんだん小説を書く気がなくなって、いつしか何も書かなくなった。今では一読者として明日の文芸界を見守っている、らしい。
「ワシらは海に縛られとるんじゃなぁ」
「はぁ」
『ワシら』と複数形になっているのが気になったが、突っ込むとさらに話が展開してしまう恐れがあったのでスルーしておいた。どうにも年寄りの話というのは長い。脈絡がありそうで突然全く違う話に飛んだりもする。
「まあアンタも、海を眺めるのもいいが、たまには違うものに目を向けなされ」
「はぁ」
だから本を読もうとしてるじゃないの。とは言わないでおいた。
「じゃが夏に水着を着て海ではしゃぐのはとても良いことじゃ。海は泳いではしゃぐためにあるのじゃ」
紀伊介は田中の胸に夏への期待をこめた視線を注いでいた。