私の名前は……
『民宿熊島』はレビューのように一人を楽しめるようなところではなかった。どうもレビューが古かったらしい。午前中ずっと部屋にいると、民宿の男の子が掃除しに来るし、ほかのお客さんとも顔馴染みになった。昔は紀伊介という宿主一人で営んでいたらしく、その時代は孤独族にとっての黄金期であったらしい。
しかし孫の新が高校生になってから本格的に民宿の手伝いをさせ始め、方針というか雰囲気が変わったようだ。というか新の労働条件は、もはや本格的というか本格、と言い切っていいほどの働きぶりである。宿主の紀伊介が働いているところなど見たことがない。
けれど、海は近いし一人の時間もそれなりにある。建物はいささか古くて建築基準法で定められた耐震強度を大きく下回っていそうな佇まいではあるが、まあそこは住めば都といった感じで、田中はすぐに慣れた。
ただレビューの通り、食事は毎朝廊下の床に置かれていた。もし田中がレビューするとしたら『刑務所暮らしを味わえる』と書くだろう。
『民宿熊島』には先客が二人いた。一人は小学生、とてもじゃないが客とは思えないが、本当に客らしい。一度田中の部屋に突然遊びに来て色々訊かれた。
「こんちわでーす」
ノック無しでその小学生は入ってきた。「おれは久野一太。あだ名はクノイチ」入ってきてそうそう訊かれてもいないのにフルネームとあだ名を名乗った。礼儀正しいのか無礼なのか判断しがたい所業である。「オネーチャンはなんて名前なの?」
――オネーチャン! なんて甘美な響きなの!
昨今自分の中で消えつつあったその称号に、田中は言い知れぬ愉悦を味わった。彼の評価を改めたのは言うまでもない。
「オネーチャン?」
小学生――クノイチが首をかしげている。――いけない。ここで変な人だと思われては。初期のキャラ作りが大事なのよっ。
「私の名前は……」
田中はそこで詰まる。自分の名前はできれば名乗りたくない。名乗ったときのクノイチの反応は二パターン想像できる。
パターン①、首を傾げる。
パターン②、爆笑。
いずれにしても、できれば見たくないリアクションだった。
――田中多菜香。この名前のせいで、今までどれだけ辛い目にあってきたことか……。タナカをどうして二度も続けて……。こう名付けた親父ギャグ好きだった父親は、田中が中学時代にアル中で宇宙外へ飛んでいってしまった。もはや文句を言うこともできない。
そんなこんなで、田中はこの民宿を予約するときにつかった偽名を名乗った。その偽名はあらゆる場面でよく使うものだった。
「私は春日井。春日井弥生……記憶喪失……だったり?」
記憶喪失、そんな設定を加えるのは初めてだった。自分で言って田中もびっくりした。――何言っちゃってんだろ……私。知らない土地に来て開放的にでもなっちゃったのかしら。でも……もういいや。何もかもリセットする気でいよう!
「ほえー! 記憶喪失! なんも覚えてないの!?」
「自分の名前は覚えてる……でも……それ以外の記憶は……ないの」
沈痛な面持ちを作ってみた。クノイチのほうを見やると、とても心配そうな顔をしている。春日井はさらに調子付く。「ちょっとした事故でね……ああ、私の彼はいったいどんな顔だったのかしら……」
ちなみに田中に彼はいたためしがない。記憶がないのは当然である。
で、田中多菜香は春日井弥生(記憶喪失)という設定付けがされた。それとなく紀伊介と新にもそのように広げておいた。小学生はともかく、大人たちまで信じたことに、田中は内心呆れていたが。
もう一人の客は女子大生、かと思いきやどうやら社会人らしい。まともな社会人が平日にこんなところにいるなんて、何かワケありかしら。
まあ、人のことは言えないよね、と苦笑する田中であった。