すっぱり辞めたかったのに
ゴールデンウィークが明けて二週間近く経ったある日、田中は所長に辞表を提出した。所長は驚きのあまりその子豚的な体を椅子ごと後方にぶっ倒れた。うぐぐぐ、と呻きながら、所長はレジで読み取れば値段が表示されそうな頭部をさすりながら、這いつくばってなんとか立ち上がる。
「じょじょじょじょじょ冗談だろ!?」
「私はいつだって本気です」
「ままままあまあ、ちょーっと落ち着こうじゃないか。ね? ね? コーヒーでも飲むかい?」
「私は常時冷静沈着です。コーヒーはいりません」
「困るんだよ……今君に辞められたら、抱えている依頼はどうすんの? 君の代わりなんていないよ。僕が全部やらなくちゃいけないの? そんなのあんまりだよー。僕ももう年で体が最近きっついんだよぉー」
所長(今年五十五歳)は子供が駄々をこねるように喚いた。
「ソーデスカ」
「そんな棒読み口調にならないでよ。ね? ね? もーちっとだけ考えてよ。辞めてどうするの? 生活は大丈夫なの? この不景気に、そんな簡単に再就職なんてできないよ? 女性に向かって年齢のことを言うのは気が引けるけど、田中ちゃんって三十四でしょ? ちょいと厳しいんじゃないかなー」
「……」
「ほーらね、よーく考えてみたら無理だよ。うんうん」
「なんとかしてみせます」
「どうしてさー、どうして辞めちゃうのさー」
「一身上の都合です」
「むーん……あ、わかった! じゃあこうしよう。有給休暇が随分残っているだろう? しばらく休んでじっくり考えてみなよ。ね? ね? きっと君は疲れてんだよ。うんうん」
そんなこんなで、辞めようと思ってたのに有給、それに早い夏休みまで一緒に取ることになり、田中は二ヶ月ほどの休みを得た。あまり嬉しくない。
――すっぱり辞めたかったのに。