マブってもしやおれのこと?
どれぐらい時間が経っただろう。男の詰問はまるで止む気配がない。だんまりを決め込んだクノイチだったけど、さすがにうんざりしてきている。――うげぇ……先生より説教なげー。
でもマシンガンの如く連射される罵倒は唐突に止む。男は突然叫ぶ。
「あ、花子っ!」
男が声をあげた先をクノイチは見やる。滝川がこちらに歩いてくるところである。なんだかバツが悪そうな顔をしている。
「や、やあ成川くん」
「お前ってヤツは……やあじゃねえよ」男はイライラしたふうに頭をかきむしる。「でもやっぱこの辺にいたかー。お前、ここ気に入ってたからな」
「あははは」
「ていうか花子、チャリ盗まれてんぞ」
――盗んでないっての。
「盗まれ?」
「こいつだよこいつ」
成川はクノイチを指差してくる。「このクソガキ、盗んだくせに何もしゃべらねえんだ。怪しいったらないぜ」
「い、いや成川くん、この子は別に自転車を盗ったわけじゃないんだって」
「どうだかな」
「本当だって。この子はあたしが泊まってる民宿にいる子なんだよ。なー、クノイチ」
クノイチはコクッと無言で小さく頷く。――なんだかクリスタル姉らしくないぞ……。控え目っていうか大人しいっていうか……どうしちゃったんだろ。
「まあこんなガキはどうでもいい。花子、帰るぞ」
「……え? 帰る?」
――帰る!?
「もしかしてあたしを連れて帰るためにここに?」
「当たり前だろ。ほかに何があるっていうんだよ。お母さんから聞いたぞ。花子がいなくなっちまったてな。会社からばっくれるは上司に電話で暴言吐くはそのまま行方くらますは、まったく、大人のすることじゃねえだろ」
ぷっちーん。
クノイチの頭の中でそんな効果音が木霊する。大人のやることじゃないって、お前がやってることだって大人っぽくねーよ。クノイチはそう思った。
あとのことは、あまりよく覚えてない。もう一人の自分が発射スイッチを押したかのように、クノイチは男に叫んでいたからだ。
「クリステル姉は大人だっ!」
「く、クノイチ?」
「クリステル姉は大人だ!」
クノイチは男目掛けて飛び掛る。――こいつはアフロ兄弟以上に許せねえっ。連れて帰るなんて、おれは認めないからな!
成川は目を見張るだけでクノイチの出鱈目に繰り出されるパンチやキックをまともに食らう。ついさっきアフロ兄弟とやりあったせいで、あんまり力が出ない。体のあちこちが痛い。おまけに涙が邪魔して目が見えにくい。
「くっ、なんだよこのクソガキがっ! 離れろ!」
クノイチは頭を男に押さえつけられてしまう。男の手の平はまるでテニスボールでもつかむように軽々とクノイチの頭を鷲掴みにしている。さらに男とクノイチの身長差がかなりあるせいか、恐竜に踏み潰されているような感覚がクノイチを襲う。振るった拳はどれも空を切るだけで男に届かない。
――くそっ、なんでおれはこんなにちっこいんだよっ! くそっくそっくそっ!
クノイチはがむしゃらに腕を振り回しながら声をあげる。
「テメェこそクリスタル姉から離れろ! おれの女に手出すんじゃないぜっ!」
「バカかこのガキは!」
――だ、駄目だ……鉄平と銅平なんかとは全然違う……。スゲー力だ。敵わないよ……。やっぱこれが大人なのか……子供には何もできないの?
――と、男の手が離れ、クノイチは急に自由になってびっくりする。おお?
見れば男は鼻から血を流している。手で鼻を押さえ、ぷるぷると震えている。
滝川の拳が、男の頬のすぐ近くで停止している。
「な……なに……するんだよ」
男は呻くように言う。
「失せろ成川。あたしのマブに指一本触れるんじゃないぜ」
――おお? マブ? マブってもしやおれのこと? マブダチってやつ? ……すっげー嬉しいんだけどっ!
「くーっ! おふくろにも叩かれたことなんてないのにー!」
男は泣き喚きながらスポーツカーに乗って去っていった。やかましいエンジン音が波の音を一瞬かき消したが、すぐにまた穏やかな潮騒がその場を埋める。
逃げていく男の後姿を見て、クノイチは思う。
あれって大人なの? と。