私は異常なし異常なし。異常あり。
*
やっちまった。滝川はまずそう思った。
あたかも誰かを殺してきたようなニュアンスが窺えるが、幸い滝川は殺人犯ではない。
彼女は砂浜に寝そべり、横を向いて愛車『赤い彗星号』(ふつーの自転車)を見やる。滝川と同じく寝そべるようにぶっ倒れている。さび付いて赤い部分がほとんど侵食され、酷い有様だった。まあ、さび付いたのはもっと前からだけど。『赤い彗星号』というのは、前に付き合っていた元カレがつけた名前だ。何かのアニメにちなんだ名らしく、三倍のスピードで走れるとかどうとか。滝川はその元ネタはわからないし気にしてもいなかったが。
ゴールデンウィークが明けて二日目、休みでもなければ夏でもない、ましてや時刻は夕方四時半、砂浜に人はあまりいなかった。犬の散歩をしているおばさんが横になっている滝川のほうを奇異の目で見てくる。
黒のパンツスーツにヒールという出で立ちで砂浜に大の字になっているのだ。しかも頭から爪先まで既に砂まみれで、奇怪に思われても仕方がない。
「あおーん」
突然発せられた滝川の咆哮に、おばさんはぎょっとして犬を引きずって逃げるように立ち去った。
「あっはっはーザマーみやがれっ。あっはっは……はっ……はー」
滝川の笑いは溜息に変わっていく。「はー、どうするかなぁ」
最初は乗り物酔いかと思った。
通勤電車の中で、滝川が体の不調を感じるようになったのは、大学を卒業し会社員生活が始まって一週間ほど経ったときだった。
疲れてるからなー、あたし。
働き者だからなー、あたし。
頑張ってるもんなー、あたし。
色々と言い訳をしてみた。誤魔化してもみた。けれど自分に嘘をつけばつくほど、体の不調は酷くなっていった。
苦しい。心臓が、苦しい。
乗り物酔いなんかでないのは間違いなかった。もし乗り物酔いなら気持ち悪くなるはずで、心臓を鷲掴みにされて握り潰されているような苦しみや痛みを感じることなどない。
けれど病院で診てもらっても、異常なしと言われた。
滝川はこの『異常なし』を信じることにした。
異常なし。
異常なし。
わたしは、異常なし。
もちろん、異常あり、だった。
滝川が住むアパートから会社までは電車を乗り継いで一時間かかる。最初の頃は苦しくても我慢して会社まで辿り着けた。
しかし徐々に苦しさは増していき、乗り換えの駅で休憩するようになった。会社までかかる時間は一時間十分になった。
乗り換えの駅まで我慢できなくて、途中の駅で降りるようになった。会社までかかる時間は一時間二十分になった。
降りて休憩する感覚が徐々に短くなった。ついには二駅に一度降りて息を整えなければ体がもたなくなった。会社までかかる時間は二時間となった。
そんなことを、滝川は一年以上続けた。
でも、とうとう限界がやって来た。
ゴールデンウィークが明けて二日後、滝川は電車に乗ることもできなくなった。
苦しいとわかっててなんで乗るの?
コレに乗ってどこに運ばれちゃうの?
なんでわたしは運ばれちゃうの?
自分という存在が、長距離トラックに運ばれる荷物の一つにでもなったかのように思えた。一人の命じゃなくて、一つの物。運ばれていく、一つの物。荷物。
滝川は逃げた。
電車に乗らずに駅を出て、駐輪場に停めてあった赤い彗星号にまたがってペダルを必死にこいだ。とにかく駅から遠ざかりたかった。
半ばヤケクソ気味に。
なにかを求めるように。
近所の国道を道なりに突っ走り、大きな橋を渡り、また道なりに自転車を走らせ、途中から有料道路になって車しか通れなくなったので回り道したら、荒涼とした工業団地に突入してびっくりした。ドンドンカンカン音を立てる無機質な工場と煙をもくもく噴き上げる煙突、ひび割れた墓石のような団地。
ここは世界の果て?
そんなことを思った。
そして滝川はその団地を抜け、さらに自転車をこいで海までやってきた。九時間以上かかった。
脚はもう使い物にならないほど疲れていて、いっそ切断して海に放り込んでやりたい気持ちにかられたが、そうしたら足の爪にマニキュアを塗る楽しみがなくなると思ってやめておいた。
海まで自転車で来られたのは、前付き合っていた彼氏がよく運転していた道を覚えていたからだ。
ふと携帯の存在を思い出して、すぐ近くに転がっているバッグに腕を伸ばす。腕時計が日光を反射して眩しい。いかにも高級な腕時計らしい輝きに思えて、滝川は溜息をつく。――どうしてこんなもん買っちゃったんだよあたし。
携帯を確認すると、恐ろしい数の着信とメールを受信していた。会社の上司の福岡靖男やその他同僚の皆々様、母にまで連絡がいっているらしく『オカン』という名前まで着信履歴に名前を並べていた。さらに元カレの名前まであったのには本当に驚いた。
「なんてこったい」
面倒なので、携帯の電源は切った。ついでに自分の電源も切るべく瞳を閉じた。