あたしのマブに指一本触れるんじゃないぜ
――さってとー、今日こそ腕時計売っぱらうぜー。ええと古道具屋の名前はなんだっけ………ゲンドウ? ガンドウ? コンドウ? うーん『なんちゃらドウ』だったことは覚えてるんだけどなー。
蜃気楼よりおぼろげな記憶を頼りに、滝川は民宿を出て、愛車『赤い彗星号』に乗ろうとする、が、なかった。――ありゃ。
民宿の玄関を出てすぐ目の前に停めてある。いつもなら。
――クノイチが乗ってるのかもしれない。新は風邪で寝込んでいるらしいし、紀伊介も春日井も民宿の中に入る。でもクノイチの姿はまだ見てない。ていうかクノイチはいつも朝飯食ったらすぐに外に遊びに行くしなぁ。でもサドルをマックス下げても厳しいんじゃないか? ま、いいや。
滝川は歩いていくことにする。
浜辺から階段を上って国道へと出る。遠くの景色がゆらめいている。もはや景色は真夏のそれである。まだ六月だというのに。
――うげー、六月の景色じゃねー。八月になったら五十度とかいきそうだね。
出発早々滅入った気分はその後二十分ほど続いた。紀伊介に教わった古道具屋まであと五分ほどで着く、というところで、見たことのある赤い自転車と見たことのある派手なスポーツカー、それに見たことのある民宿に泊まり続けるホームアローン少年と見たことのある元カレを視認した。
――どういうコラボだよ……。
クノイチと成川が、国道沿いの歩道で向かい合って何やら口論を展開していた。……いや、成川が一方的に怒鳴っているらしい。顔を猿の尻みたいに赤くして唾を飛ばしながら吠えている。
クノイチは歯を食いしばってそれに耐えている。赤い彗星号はクノイチが支えている。
クノイチと成川の後ろ斜め後方、海岸を目の前にした位置には県営の有料駐車場があり、イタ車が停めてあった。『イタリア製の車』ではないということを言及しておく。痛車である。見た目はスポーツカーだが、真っ赤なボディにはアニメ絵美少女がボンネットや両サイドのドアにでかでかと描かれている。遠くからでも一目でわかってしまう。できれば蜃気楼であってくれと滝川は思った。
「あ、花子っ!」
成川がこちらに気付いた。紺色のポロシャツにビンテージ物の色褪せたジーンズ姿だった。私服になるとまだ学生っぽかった。
「や、やあ成川くん」
「お前ってヤツは……やあじゃねえよ」成川はイライラしたふうに頭をかきむしる。「でもやっぱこの辺にいたかー。お前、ここ気に入ってたからな」
「あははは」
――殴りてー。元カレに『お前』呼ばわりされるとどうしてこうも腹立つのかしらん。
「ていうか花子、チャリ盗まれてんぞ」
「盗まれ?」
「こいつだよこいつ」
成川はクノイチを指差していた。「このクソガキ、盗んだくせに何もしゃべらねえんだ。怪しいったらないぜ」
――なるほど。そういうことね。成川はクノイチが赤い彗星号に乗っているところを見かけて止めさせたんだな。なんといういらぬ偶然。
「い、いや成川くん、この子は別に自転車を盗ったわけじゃないんだって」
「どうだかな」
「本当だって。この子はあたしが泊まってる民宿にいる子なんだよ。なー、クノイチ」
コクッと無言で小さく頷くクノイチ。――おかしい、なんだこの元気のなさは。大体いつものコイツなら成川に言われるがままなんて不自然だぞ。何がしかの反抗的態度、あるいは直接的な反撃やらで挑むほうが自然なんだけど。
「まあこんなガキはどうでもいい。花子、帰るぞ」
「……え? 帰る?」滝川は首をもげるぐらいひねる。「もしかしてあたしを連れて帰るためにここに?」
「当たり前だろ。ほかに何があるっていうんだよ。お母さんから聞いたぞ。花子がいなくなっちまったてな。会社からばっくれるは上司に電話で暴言吐くはそのまま行方くらますは、まったく、大人のすることじゃねえだろ」
――ぐはっ、んなことまで知られているとは……。そういえばオカンには成川くんと別れたとは一言も言ってなかったな。やれやれ……こういうとき家族公認カップルの面倒臭さを痛感するなぁ。
そのとき、沈黙していたクノイチが突然声を荒げる。
「クリステル姉は大人だっ!」
「く、クノイチ?」
滝川はびっくりして心臓がテンエイティーしてしまったかと思った。見ればクノイチ、涙目になって成川を睨んでいる。その表情は昨日ナンパに失敗したクノイチの顔を髣髴とさせる。まだ昨日のナンパ失敗を引きずっているのだろうか。
――違う。そんなんじゃない。何か、何か地雷があったんだ。クノイチを爆発させるだけの地雷を、成川くんが踏んだんだ。
けれど、滝川にはその地雷の在り処はわからない。
「クリステル姉は大人だ!」
クノイチはもう一度叫ぶと、成川にとびかかった。突然のクノイチ暴走に、成川は目を見張るだけでクノイチの出鱈目に繰り出されるパンチやキックをまともに食らう――が。
いくらなんでも大人の成川にクノイチが敵うはずがない。ボコボコにされて怪我するんじゃ……と心配した滝川だったが、よく見れば既にクノイチはそこかしこを擦り剥き、痣を作っていた。
――どういうこと? まさかあたしが来る前に成川くんにやられたとか!?
「くっ、なんだよこのクソガキがっ! 離れろ!」
成川もようやく事態を把握し、クノイチ撃退に移行する。クノイチは頭部を成川の手に押さえつけられながらも、がむしゃらに両腕を振り回している。
「テメェこそクリスタル姉から離れろ! おれの女に手出すんじゃないぜっ!」
「バカかこのガキは!」
……クノイチ。
もみ合う二人を見ながら、大人って本当に何だろ、と滝川は考える。
――大人って言っても色々いる。ナンパの上手いヤツ、ナンパの下手なヤツ、ガキみたいな大人、大人みたいな大人。
成川くんは……大人?
……大人かもしれない。でも……あたしとは違う大人だ。
――――――そして。
滝川は二人のもみ合いに割って入り、成川の顔を殴打した。平手打ちではなく、グーで、殴打した。手の甲が軋む感覚と、成川の左頬が潰れる感触が同時に襲ってくる。――いってー、けどすっきりー。
成川は殴られた頬をおさえぷるぷると震え、ぽたぽたと鼻から血を流し始めている。終いには涙さえ浮かべる。クノイチはというと、きょとんとした様子で未だに何が起こったのかよくわかっていない様子だ。
「な……なに……するんだよ」
成川は呻くように言う。
「失せろ成川。あたしのマブに指一本触れるんじゃないぜ」
「くーっ! おふくろにも叩かれたことなんてないのにー!」
成川は泣き喚きながら県営駐車場に逃亡、駐車してあった痛車に乗って去っていった。やかましいエンジン音が波の音を一瞬かき消したが、すぐにまた穏やかな潮騒がその場を埋める。
逃げていく成川の後姿は、どう好意的に見ても大人には見えなかった。