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悪霊

 幽霊などというものは通常では存在できないし、存在できたとしても非常に曖昧なものだ。それは残滓でしかなく、大半の場合は死に際の強烈な想いを再生し続ける現象となりはてるだけだった。

 つまり、幽霊になるのも、悪霊となって祟るのも才能がいるのだ。生前の意思をハッキリと残し、意識が連続しているとなると非常に希であり、希有な存在だった。

 つまりは天才だ。

 それは、特定の名を持たない、原始の時代に死んだ何者か。それ以来、ずっと意識を紡いできた化物。『機関』がただ『悪霊』と呼ぶものだった。

『悪霊』は己の才覚を十分に自覚していた。

 それが故に『悪霊』はただ虚空を揺蕩い続けた。存在し続けることこそが力だと、より長い年月を無為に過ごすことこそが強大な存在の証明だと確信しているのだ。

『悪霊』は周囲の一切に頓着しなかった。力の流れに身を任せ、ゆらゆらと彷徨う。行った先に何がいようと、ただそれを取り込み、糧とするだけだった。

 一度やってくれば全てを呑み込み、後には何も残さない。そこにたいした意思はなく、それが自然の摂理だと考えている。それは飢饉を起こし、地震を起こし、疫病を発生させる。存在するだけで全てに害悪を及ぼす、それはまさに災害だった。


「おい。ここは我、壇ノ浦もこもこの縄張りだ。早々に余所へ行くがよい」


『悪霊』がいつものように空を彷徨っていると、何者かが立ち塞がっていた。もちろん、そんなものを気にするわけがない。いつものように突き進み、巻き込まれて砕け散った魂の残滓を啜るだけのことだ。


「聞こえとらんのか!」


 狩衣を着た女、もこもこが苛立ちを見せた。霊格からすれば平安期の霊だろう。取るに足りない、有象無象の一つでしかなかった。それが何を言っているのかはわかる。ただ『悪霊』にとっては雑音に過ぎなかった。気に留める必要もない、すぐに消えゆく儚い意思の表れでしかなかった。

 力の流れにそって『悪霊』は動いていく。身に纏う威が、台風のように渦を巻く霊力が、もこもこを呑み込んだ。


「しゃらくさいわ!」


 途端に力が消し飛んだ。何が起こったのか『悪霊』にはわからなかった。これまでにはなかったことが起こり、状況を把握できなかったのだ。

 もこもこが近づいてきて『悪霊』の頭部を片手で掴んだ。『悪霊』は自分が人の形を持っていることを久方ぶりに思い出した。


「優しく言っておれば付け上がりおって! さっきから聞こえておったよなぁ!? あぁ!? それを無視か? しれっと無視したら通れるとでも思っておったのか!?」


 みちり。そんな音が聞こえたような気がした。実際には存在しない、人としての頭部が軋みをあげているのだ。


「貴様が何者だかなど知ったことか! ただ壇ノ浦の縄張りを通ることはまかりならんと言っておる! 理解できたか? 理解できたのならさっさと去ね!」


 もこもこが振りかぶり、『悪霊』を放り投げた。

 悪霊は後退を余儀なくされ、壇ノ浦の縄張りとやらの外にまで追い出されたのだ。


「いいか? 貴様がどこぞの神かは知らん! ただ、何者であろうとここは通れんと言っておるのだ! 来るというのなら戦だ! 壇ノ浦をなめるなよ!」


『悪霊』はそれでもわからなかった。いつものようにゆらゆらと流れていたら、何か邪魔になるものがあった。ただそれだけの話であり、流れをそれようなどとは思わなかった。『悪霊』はただ力の流れに従う。そこに障害があるのなら、押し潰して通るだけのことだ。

『悪霊』は再び動きだし、壇ノ浦の縄張りを侵犯した。

 ぶちりと何かが切れたような音が響いた。霊や魂というのはイメージの存在だ。あると思えばそれはあるのであり、つまりそれは堪忍袋の緒が切れた音だったのだろう。

 もこもこが飛び出す。瞬時に『悪霊』に迫り、右拳を振り下ろした。『悪霊』は吹き飛ばされ地面に激突する。地面は、霊にとっても明確な境だ。そこから先へは行けず、そこに留まることになる。

 もこもこが急降下し、両足で『悪霊』の背を踏み付けた。

 もこもこが『悪霊』の髪を掴み、顔面を地面へ叩き付ける。

 何度も、何度も、叩き付けた。

『悪霊』は、次第に恐怖を覚えはじめた。痛いわけではない。その執拗さに、純粋な殺意に恐れを成したのだ。


「ぎゃああああああ!」


 いつの間にか『悪霊』は悲鳴を漏らしていた。霊力が、魂が削れていく。何千年と蓄積し、層を成した力が削れていくのだ。己の存在がゆっくりと消えゆく恐怖。逃れようのない圧倒的な暴力。それは痛みとなり『悪霊』の意思を挫いた。


「タスケ……タスケテ……タスケ……」


『悪霊』は言葉を搾り出した。死後に蓄積した知識の中にあった、日の本の言葉をどうにか紡いだのだ。


「あぁ!? 喋れるではないか、阿呆が! だったら助けを乞う前に言うべきことがあろうが!」


 もこもこは動きを止めなかった。話ながらも『悪霊』を地面に叩き付け続けていた。


「ワカラナイ……ワカラナイ……タスケテ……タスケテ……」

「詫びの一言もないのか! あぁ!? まずはごめんなさいだろうが!」

「ゴメン……ゴメンナサイ……ユルシテ……ユルシテ……」

「ちっ」


 詫びろと言って、相手が詫びた。一応は言葉通りになっている。もこもこは、再び『悪霊』を放り投げた。縄張りの外へと大きく投げ捨てたのだ。


「去ね! 二度と来るなよ!」


 もこもこが怒りを露わにしている。それこそが嵐であり、災害のように『悪霊』には思えた。当然、近づけるはずもなく『悪霊』はボロボロになった霊体を引きずるようにしてその場を後にした。


  *****


 幽霊だとか霊魂だとか魂だとか。

 現にその状況にあるもこもこにもよくわかってはいなかった。

 もちろん、人には魂があって、死ぬと身体から離れるのだと単純に考えてもいい。だが、そうなると人は魂でものを考えていることになってしまい、情報処理装置としての脳の役割がよくわからなくなってくる。もこもこは案外リアリストなので、そのあたりをうやむやにすることができないのだ。

 もこもこの当面の結論は、情報の保持と処理は脳以外の場所でも行われているというものだった。それが具体的に何になるのかはよくわからないが、空間や場そのものにそんな機能があると仮定してもいいだろう。

 生きている間は脳で処理が行われていて、死後、脳が保持していた情報が場へと転写されるのだ。その情報には情報そのものと、その情報を処理するアルゴリズムが含まれていて、以降は場が情報を処理して更新していく。


「そう考えると無理矢理辻褄を合わせることはできるのだが、そのあたりの仕組みがよくわからんから、机上の空論なのよなぁ」


 空にふわふわと浮かびながら、もこもこはつらつらととりとめのないことを考えていた。

 場にそんな機能があるとして、では、なぜ全ての人間が霊にならないのか。ほとんどの人間は死んだらそれまでだ。霊として意識を存続させることはできないし、霊になったとしても曖昧な、意思疎通も難しい状況に陥るだけだった。


「まあ……我がとてつもなく強大な存在だ! ということでいいのかもしれんが……しかし異世界でも我が存在できておったのだから、魂、もしくは場の仕様はどこであっても共通ということなのか?」


 だが、異世界ではもこもこにも多少の変化はあった。それは、知千佳からあまり離れることができなくなったことだ。つまり、元々は浮遊霊のような存在だったが、異世界では背後霊としての存在を余儀なくされたのだ。


「そうなると、背後霊に関しては別の可能性も考えられる。すなわち、知千佳の脳を間借りしていたというパターンよな」


 それもありそうだとも考える。たとえば、処理能力は場によって異なるとしよう。異世界は、異世界の霊に最適化されているため、別の世界の霊であるもこもこをうまく処理できなかった。そこで、知千佳というハードウェアをアクセラレータとして使用し、存在を補強していたのだ。そのため、知千佳から離れると存在が不確かになるといった理屈だ。


「んー、我、憑依させられたりもしとったが、あの場合はあやつの脳で処理をしとったということになるのか? ……あれは忘れたほうがよいな!」


 守護霊としては守るべき存在を攻撃するなどあってはならないし、沽券に関わってくる。もこもこはしれっと忘れておくことにした。


「しかし暇よなぁ。なんぞ面白いことでもないものか」


 異世界でのことが懐かしくなるほど、今のもこもこは暇だった。守護霊として子孫の前に現れたのはあくまでも異世界という特殊な状況下での例外であり、普段は知千佳などと交流することはないのだ。

 それに、スマート家電を操ってイタズラしていたこともうっかり喋ってしまったので、あまりおおっぴらにイタズラもできなくなっていた。もし、壇ノ浦家の近所でそんなことがあれば、たちまちばれてしまうだろう。

 それで何か問題があるわけでもないのだが、壇ノ浦家の守護者としては、子孫たちに嫌われるようなことをあまりやりたくはなかった。


「うーむ……知千佳はこっちに戻ってきてからは我を呼ぼうとせんしなぁ」


 一応、道場にある神棚を通じて連絡ができることにはなっていたが、知千佳がもこもこを呼ぶことは一切なかった。


「かっこ付けて、よほどのことがない限り呼ぶではないぞ! などと言ってしまったからなぁ……。我のような不確かな存在を当てにするような情けない子孫であっても困るので、これはこれでよいのだが……」


 別に知千佳の前に現れたところで何の問題もないはずだが、つい言ってしまったのだ。


「しかし、せいせいしたと言わんばかりなのが癪に障るよな! もっと敬ってしかるべきかと思うのだが! 多少はさみしがってもいいのではないか!? なんぞお供えをするとか! いや、されても別に我が食えるわけでもないんだが!」


 だが、もこもこからわざわざ会いにいくような真似をするつもりはなかった。守護霊がずっとそばにいるなど鬱陶しいという気持ちもわかるからだ。


「何か面白い物でもないものか。そうだな、ペットロボはどうだ? あれなら多少おかしな振る舞いをしたところでAIの挙動ということになって不思議でもなんでもないかもしれんし!」


 もこもこはふわふわと動きながら電磁波を傍受した。インターネットに繋がっている回線を調べ、ペットロボットメーカーのサーバーとのやりとりを探していく。


「うーむ。案外ないな。本格的なペットロボはそれほど普及しとらんのか」


 玩具レベルのロボットが急に人のような振る舞いを始めればおかしいだろう。できるだけ高価で、複雑な振る舞いをしてもおかしくないようなロボットが理想だった。


「……いや? ロボットならあるのではないか?」


 人型で高性能。異世界で操った実績もある。そして、それはこの世界に元々あったものなのだ。


「問題はどこにあるのかだな。当然、こちらの世界では停止しておるだろうし……皇家から当たるか? いや、槐本人は自分のロボのことなど知らんか。小僧を襲ってきたとかのはずだから研究所関連か……小僧に訊いてみたほうが早そうだな」


 子孫とは会えないが、高遠夜霧に会うのは問題ない。勝手にそういうことにして、もこもこは夜霧のスマートフォンへと発信した。電波とネットワークについては暇に飽かせて散々に研究している。基地局に侵入して、勝手に電話をかけるぐらいは造作もないことだった。

 ただ勝手にインフラを使用するのはよろしくないとはもこもこも思っているので、回線の名義はちゃんと用意してあるし、料金も支払っていた。


『もしもし?』

「我だ我! 壇ノ浦もこもこだ!」

『久しぶりだね』

「幽霊から電話がかかってきたというのにやけに冷静だな!」

『幽霊っていっても、もこもこさんだし』

「まあ、今さらか」

『何か用?』

「ほれ、槐というのがおったであろう。あれ、ロボットでこちらにあるのだよな?」

『あれ? もしかして近くにいるの?』

「どうした?」

『いや、その槐と今一緒に歩いててさ。篠崎さんの家に向かってるのがまさにその件で』

「ほう。奇遇だな。そのあたりのことについてちょっと話したいんだが、篠崎の家に行けばいいのか?」

『うん。しばらくいると思うけど』

「ではそちらに向かおう。少し時間がかかるかもしれんから、すぐ来なくても我のことは気にせんでくれ」


 もこもこはふわふわと空を飛んで動きだした。


「ふーむ、移動は多少もどかしいものがあるな」


 基本的に、高速移動は難しかった。場が情報を処理しているという話であれば、移動ごとに逐一情報を書き換えているためかもしれない。一度通過した場所ならしばらくはスムーズに移動できるのも、その推測を裏付けるものと考えられた。


「一定の範囲内であれば自在なのだが……この範囲が我が占有できる領域ということなのか、移動するごとに領域の拡張もせねばならんのか」


 地縛霊などは支配領域を拡張して移動できないのかもしれない。そのあたりの仕組みをもう少し突き詰めてみてもいいかもしれなかった。また暇になったら研究しようと考えながら、もこもこはふわふわと篠崎家へと近づいていく。

 しばらくして、篠崎家の門前に辿り着いたら、やけに人が集まっていた。

 篠崎綾香がいるのは当然だし槐も一緒とは聞いていたが、二宮諒子とキャロル・S・レーンまでいるのは意外だった。それに何やら倒れている者もいるので、何らかの騒ぎがここで起こっていたようだ。


『何をしとるのだ?』

「あ、もこもこさんだ」


 基本的には存在を認識されないもこもこではあるが、夜霧は例外だった。夜霧は、いることを知っている霊体であれば認識できるのだ。


「何か襲ってきたらしくて、二宮さんとキャロルが戦ってたらしい」

『ふわっとしとるのぉ』

「直接関係ないからなぁ」


 だが、敵らしき者を倒したのは夜霧らしい。さらっと殺しておいて関係ないと言い放てるのだから、やはり普通の人間ではないのだろう。


「気になるのでちょっと、何があったか訊いてくれんか?」

「いいよ」


 夜霧はさほど気にしてはいなかったようだが、もこもこの頼みを聞いて事情を訊いてきてくれた。


『ほう。異能者が脱走して、それを追っていたということか』

「三人いるから、後二人どっかにいるみたいだけど」

『物騒だな。だが、我が気にする必要はなさそうだ。それはそれでいいとして、そっちが槐か。ロボのころよりは大きくなっとるな。それで槐関連で何をしとったのだ?』

「そのロボだけどさ。いつまでも残してるのはどうなんだと思ったから、本人に処遇を決めてもらおうと思って」

『何じゃ? 壊すのか?』


 せっかくいい案を思い付いたと思ったのだが、壊すというのなら仕方がないところだった。


「それがいいと俺は思ってたんだけど、槐が妙なことを言いだしてさ」

『妙とは?』

「このロボは勝手に作られたみたいだけど、権利は自分にあるんじゃないかって。それはわかるんだけど、だったら売ってお金にできないかって言いだしたんだよ」

『売る……のは無理なんじゃないのか? 公には知られていない技術で作られとるというのに』

「うん。それに売った後は管理外だし、どう使われるか不安だろ? だからやめたほうがいいんじゃないかって言ったんだけど、だったらこのロボを働かせられないかって」

『なんじゃ? 金に困っとるのか?』

「らしいんだよ」

『ふむ……それならちょうどいいかもしれんな。槐ボディじゃが、我にレンタルせんか? レンタル料も払おう』

「操ってたのは知ってるけど、もこもこさん、お金持ってるの?」

『持っとるぞ。スマホでQR決済アプリを起動するがよい。そこの受け取るを押して……こうだな』


 もこもこはQRコードを読み取り、夜霧宛てに千円を送金した。夜霧のスマートフォンから軽快な音が鳴り、チャージされたことを伝えてきた。


「ほんとだ。どうやって稼いでるの?」

『ネットワーク上で完結する仕事などいくらでもあるし、多少の元手があればそこから運用して増やすことも可能だ。暇なときはデイトレードなどもやっておる』

「うーん。もこもこさんなら大丈……大丈夫か?」

『あんまり大丈夫な姿を見せておらんかったかもしれんが……こちらは暇潰しにロボで遊びたいだけだからな。無茶をするつもりはないし、NG行動などの要望は全て呑むつもりだが』

「槐がお金を欲しいなら悪い話じゃないのか? もこもこさんの存在を説明するのが難しいというか、面倒くさいことを除けば」

『面倒かもしれんがうまいこと説明を頼む』


 夜霧はもこもこの提案を全て槐に伝えた。


「幽霊がいるの?」


 槐がきょろきょろとあたりを見回していた。疑う様子はないので、素直に信じたのだろう。


『そやつ、スマホを持っとらんのか?』

「うん。お母さんしか持ってないって」

『それほど困窮しとるというのも哀れよの。話がしたいので小僧のスマホを槐に貸してやってくれ』


 夜霧はスマートフォンを槐に渡した。


「我は壇ノ浦もこもこ。話は先ほど聞いたとおりだ。どうだ? ロボを貸してはもらえんだろうか?」

『え? 幽霊が電話できるの?』

「できるのだ。ロボを貸してくれるのなら、お主用のスマートフォンも用意してやろう。通信代金も払ってやる。必要経費だ」

『う……で、でも、いきなりよくわかってないものを貸せって言われても……』


 揺れ動いているのが伝わってきた。もう一押しだろうともこもこは判断した。


「一体に付き十万。三体で一月あたり三十万円払おう」

『よろしくお願いします!』


 金で済むのなら、実に簡単なことだった。


  *****


 もこもこに痛め付けられた『悪霊』は為す術もなく『機関』に捕らえられ、幽閉されることになった。

 霊的な封印が何重にも仕掛けられた部屋に閉じ込められたのだ。

 本来の『悪霊』であれば造作もない、取るに足らない仕掛けではあったが、力をなくした『悪霊』はただ耐え忍ぶしかなかった。

『悪霊』は怒りを覚えていた。ほとんど植物のような域に達しようとしていた精神が、もこもこに叩きのめされたことによって凡俗のごとくに変化していたのだ。

 明確な意思が芽生え、壇ノ浦もこもこへの復讐を誓う。

 壇ノ浦の全てを呪おう。親類縁者だけに及ばず、その土地に関わりのある者全てを憑き殺そう。心の内でぐるぐると呪詛を巡らせる。そうやって呪いと怒りを熟成させながら待ち続けることは苦でもなかった。

『悪霊』は力を回復させながら、それを悟られないようにと内へ潜める。そうして、いつか綻びが生じるときが来ることに賭けたのだ。

 そうしてどれほどの時が経ったのか、機会は訪れた。

 唐突に部屋が切り裂かれ、全ての封印が解かれたのだ。


「あ? 何もねぇが……何かいる気もするな。おい、一緒に逃げようぜ?」


 少年が入ってきた。大騒ぎの原因は彼のようだ。『悪霊』は彼に憑いた。彼についていくのが、脱出するのには手っ取り早いと考えたのだ。

 蝙蝠の獣人に運ばれ、都合がよいことに壇ノ浦の近くへと連れてこられた。

『悪霊』は力を解放した。そして、手当たり次第にそこらの雑霊を取り込んだ。これまでは強くなろうなどとは考えもしなかった。『悪霊』はただ在り続けるだけで強者だったのだ。

 だが、今は違う。強くなるために、より強靱になるために。積極的に力を求めたのだ。

 強くなろうとする『悪霊』はいくらでも強くなれた。瞬く間に全盛期を越え、さらに肥大化していく。呪詛に塗れ、復讐に凝り固まった『悪霊』は今までにはない悪意と呪いに満ちていた。充実感があった。これこそが本来あるべき姿であったのだろう。そう確信できるほどに、力が満ち溢れていた。

 時は満ちた。今ならば、何が相手であろうが負けるはずがない。一度敗れ地を這ったというのに、その屈辱を簡単に塗り潰せるほどの矜持を得ていた。

『悪霊』は動きだした。壇ノ浦もこもこは最後だ。まずは呪いで地を満たそう。二度と草も生えぬように地を穢そう。そこに生きる有象無象が死に絶えるほどの呪詛をまき散らそう。

『悪霊』が吼える。呼応するように、地から闇が滲み出る。それはこの世に未練を残した魂の残滓。拡散せずに留まり続けた邪なる汚穢。『悪霊』に惹き付けられ、形を成した無数の悪意だ。

『悪霊』は空へと飛んだ。雑霊どもを率い、空を埋め尽くす。霊感のある者なら、この世の終わりとでも思うような光景だろう。『悪霊』は壇ノ浦の縄張りとやらを確認し、そして唐突に壇ノ浦もこもこと遭遇した。


  *****


 皇槐との交渉がうまくいき、喜び勇んで帰ってきたところでもこもこはそれを発見した。

 蠢く暗黒。悪意の渦。呪詛の塊。闇の太陽とでも呼べばいいのか、巨大な黒球が街の上空に浮いているのだ。そして、その周囲を悪意ある霊どもが無数に取り囲んでいる。


「おうおう。まるで百鬼夜行がごとき有様よの」


 一目見て、もこもこは悟った。それは、およそこの世にあってはならないものだ。


「ふむ。お主、どこかで会ったことがあるか? まあいい。我は今気分がよいのでな! このまま立ち去るなら見逃してやってもよいぞ?」


 これを放っておけば確実に災いが巻き起こる。霊や魂の世界、幽世(かくりょ)だけではなく現世(うつしよ)においても実害が発生するだろう。それは地震や竜巻といった自然災害だろうし、陰鬱が蔓延し人の社会が停滞するといった間接的なものも含まれるが、何にしろ広大な範囲を巻き込んだ地獄絵図になることは間違いない。

 とはいえ、壇ノ浦家の守護霊であるもこもこに、そんな悪霊にまで対応する義務はなかった。壇ノ浦家に直接危害が及ばないのなら基本的には放っておくしかない。そんな些事に囚われて本来の仕事である壇ノ浦家の守護が疎かになっては何の意味もないからだ。


「ダンノウラ……ダンノウラ、モコモコ!」


 闇が震え、悪意が谺する。黒球の中にいる何者かの正体はまるでわからないが、もこもこへの多大な恨みだけは十分に伝わってきた。


「おうおう! そこまで情熱的に我が名が呼ばれるのは久しいな。して、何用だ?」


 言葉がどうにもおぼつかない。得意ではないようなので、動物霊の一種かともこもこは考えた。


「コロス!」


 それの怒りで大気が震えた気すらする。さすがに、これを放置はできないようだった。このまま家へと戻ったところで、追撃されるだけだろう。


「よかろう。付き合ってやろうではないか。場所を変えるぞ」


 ここで戦闘になった場合、まだ離れているとはいえ壇ノ浦家にも影響が出かねない。もこもこは来た道を戻ることにした。直近に通過した場所はもこもこの支配下にある。そこを通るなら、高速移動が可能だった。

 戻る先は当然、篠崎家だ。あのあたり一帯は全て篠崎家の土地だ。つまり、派手な戦いになって周囲に影響が出たとしても、迷惑を被るのは篠崎家だけということになる。


「おわ!」


 闇の塊は、もこもこを追ってきた。そして、そこから黒い鞭のようなものが伸びてきたのだ。慌てて躱したが、少々まずい事態だった。もこもこが高速移動できる範囲は限られているのだ。それに気付かれれば、飽和攻撃により逃げ場を塞がれてしまう。

 次々に伸びてくる黒鞭を、雑霊の特攻を躱しながら、もこもこは先を急いだ。


「おおっと!」


 後ろばかり気にしていたので、突然の前からの攻撃にもこもこは慌てた。

 どうにか躱し、急停止する。闇の首魁は前方に回り込んでいた。どうやら、もこもこが想定した以上に素早いようだ。


「ふっ。だが逃げるような真似はここまでよ! ここが目的地なのだ!」


 篠崎家。ここに来たのは周囲への迷惑を考えてだけではない。


「さあ小僧! やってしまうが……って、もう帰っとるではないか!」


 だが、その当てはおおいに外れてしまっていた。もしかすると夜霧が面倒な敵を倒してくれるかもしれない。そんな淡い期待と共にここまでやってきたのだが、もう門前には誰もいなくなっていた。

 いつの間にか、周囲を雑霊どもに取り囲まれていた。前後左右上下、逃げ場なく有象無象が密集している。


「はぁ……というか、お主何者だ? 我、そこまで恨まれるような相手は……大量にいるんだが大半は殺しとるはず……いや、殺しとるから悪霊化して襲ってくるのか?」


 つまり具体的な相手に心当たりはなく、対象を絞り込むことは不可能だった。


「何か知らんが倒せばよいのだな!」


 黒鞭が飛んでくる。もう躱す必要はないので、もこもこはそれを手で受け止めた。


「ふん!」


 気合いを入れて鞭を引きちぎる。正面から相対すればこの程度の攻撃への対処など造作もなかった。


「こんなちまちました攻撃は通用せんぞ? 大技でこい!」


 もこもこの言を素直に聞きいれたとも思えないが、この程度では通用しないことは理解したのだろう。悪霊は黒鞭を小出しにしてくるのはやめた。

 闇が収縮していく。それは一点へと集中し、中にいた者を露にした。


「正体を現し……いや、誰だ? やっぱり心当たりがないのだが?」


 それは黒い人影といった存在だった。人の形をした憎悪と呪詛の塊。顔の判別などつかず、ただ怨みを体現しただけの闇人形。それが両手を前に伸ばしている。その先に闇が凝り固まっていた。


「なんちゃら波でも飛ばすつもりか?」


 ちらりと背後を見る。雑霊どもでよく見えないが、その先には街が、壇ノ浦の屋敷がある。これほどの闇を凝縮した呪詛の塊だ。これが放たれた場合、何の影響もないとは思えなかった。


「ふむ。それを受け止めるなり、相殺するなり、消し飛ばしなりする必要があるわけだ」


 もこもこは、弓手を前へ、馬手を肩口にまで引いた。それはつまり、弓を引く姿勢だ。


「我を倒そうとそうなったようだが……悪手だな。悪鬼羅刹、悪神、悪霊、禍つ神。邪なる者では我を倒せはせん」


 もこもこの手に弓が現れた。矢はなく、弦のみを目一杯に引き絞っている。


「壇ノ浦流弓術奥義、弦鳴(つるなき)


 悪霊が、限界まで押し縮められた呪詛を放つ。

 もこもこは、弦を放った。

 玄妙なる調べと共に、圧倒的な光が放射される。清浄なる光は周囲一帯を白く染めあげ、黒き者どもの存在を許さなかった。

 消えゆく者どもが小さな苦鳴をあげるが、そんなわずかなものすらも弦音がかき消していく。

 結果、もこもこ以外の全てが消え去った。


「知千佳には信じてもらえんかったが、我は神霊みたいなものだからな! こんな悪霊ごときが敵うわけがなかろうが!」


 身の程知らずが襲ってきたので返り討ちにした。もこもこにとってはその程度の出来事だった。


「すっかり帰るのが遅くなってしまったな。まったく」


 もこもこは再び家路についた。悪霊退治のことなどすぐに忘れ、ロボをどう活用するかの検討に夢中になっていた。

解説(書籍版ではあとがきで各話解説をしていましたので、各話ごとに書いておきます)


 もこもこさんTUEEEだけの話。夜霧がいなければ、知千佳ともこもこコンビで異世界でもどうにかしていたのかもしれません。

 基本的には霊障を起こすぐらいのイタズラしかしていなかったもこもこですが、この話ぐらいから現実世界へ干渉する方法が増えてしまいました。もうやりたい放題です。

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