第51話 幸福とは、いまここにあること
瓦礫の影に咲いた花が、朝の光を受けてかすかに揺れている。記録塔の残骸はすでに形を失い、かつて人々の運命を左右していた「幸福値」という数値の名残も、今では誰の頭上にも浮かばない。
私は丘の上に立ち、眼下に広がる村を見つめていた。光祭りの名残がまだそこかしこにあり、誰かが笛の音を奏で、誰かが子どもと手を繋いで歩いている。数字では測れない“笑顔”が、確かにそこにあった。
「ようやく……ここまで来たんだね」
隣に立つラティが、そっと言った。彼の瞳に映る村の光景も、私と同じように、柔らかく、温かい。
「幸福は与えるものじゃない。育てるものなんだって……やっと気づけた気がする」
「気づいてたよ、ずっと。だから君は、この場所を選んだんだ」
ラティの言葉に、私は小さくうなずいた。
思えば、王都で“聖女”と呼ばれていた頃の私は、ただ祈ることしかできなかった。誰かの願いを叶えようとするたび、逆に傷つけてしまう自分が怖かった。幸福を求めることで、人々が壊れていくのを止められなかった。
でも——
「今なら、わかるの。幸福って、きっと“手に入れる”ものじゃない。“気づく”ものなんだって」
「気づく?」
「うん。たとえば、今日のごはんがおいしかったとか。風が気持ちよかったとか。誰かの声を聞いて、安心したとか……」
私は胸元に手を当てた。
「その小さな“いま”に気づけたとき、人は幸せになるんだと思う」
ラティはゆっくりと目を閉じて、深く息を吸い込んだ。高原の空気が肺を満たす。風が髪を揺らし、遠くで誰かが笑う声がした。
「……なら、僕は、君といるこの瞬間が、きっと幸せなんだろうな」
私は笑った。
「照れくさいこと言うんだね」
「本心だからね」
そんなやりとりのあと、私たちは村へと戻った。道すがら、かつて“幸福値:1”と表示されていた男、オルステンの姿があった。
彼は今、村の広場で子どもたちに剣術を教えている。無愛想なのは変わらないが、その背中にはどこか穏やかさがある。
「おい、そこの坊主。剣は振る前に足を決めろ。腰が逃げてるぞ」
「うん! オルステンおじさん、見てて!」
かつて“幸福を拒絶していた者”が、今は“未来を託される者”として生きている。
彼の頭上に数字はもうない。けれど、そこに浮かぶ表情は、かつてよりもはるかに人間らしいものだった。
「変わったね、オルステンさん」
私がそう声をかけると、彼はチラリとこちらを見て、ふんと鼻を鳴らした。
「何が変わったって? 剣の腕は落ちてないぞ」
「そうじゃなくて……雰囲気が、ね」
「気のせいだ」
でも、口元がわずかに緩んでいた。
——人は、変われる。
——数字がなくても、心で繋がれる。
——誰かを信じることで、また歩き出せる。
私は、手帳を開いた。
そこにはもう、幸福値の記録は残っていない。ただ、最後のページにだけ、走り書きがあった。
《“幸福”は、計れない。でも、共に笑う誰かがいれば、それで充分だと思う》
それを書いたのがいつだったか、思い出せない。でもきっと——“元聖女”だった私が、いちばん最初に信じた言葉。
私はそのページを静かに閉じ、空を見上げた。
*
季節がめぐり、風景が変わっても、この村には人が集まり、笑い声が響くようになった。
ミーナは今、旅を終えて戻り、村の広場で“対話の書”という小さな冊子を作っている。
「数値じゃなく、言葉で伝える。心で語る。そんな記録が、あってもいいよね」
そう言いながら、彼女は今日も一人ひとりにインタビューを続けている。
「ねぇ、あなたにとって、“幸福”ってなに?」
そう尋ねながら。
ルカは鍛冶場を構え、ジャレッドは魔道図書館を再建し、フェリクスは教師として子どもたちに魔術を教えている。誰もが、“誰かのために動く喜び”を見つけていた。
ある日、私は村の片隅で、新しいカフェを開いた。
名もなきその店に、ラティが看板を描いてくれた。
『Cafe Hikari』
扉を開けると、あたたかい匂いと、笑い声が満ちている。
ラティが奥で魔術を使ってお菓子を焼き、私はカウンターで紅茶を淹れる。
——ここにはもう、数値も、評価も、管理もない。
でも、たしかに“幸せ”がある。
一人ひとりの心のなかに、それぞれの形で、灯っている。
ある日、一人の旅人がカフェを訪れた。疲れた顔をしていたけれど、席に座って紅茶を一口飲んだ瞬間、少しだけ眉が緩んだ。
「……あたたかいな」
その一言を聞いて、私は思った。
——ああ、幸福って、こういうことなんだ。
——いま、ここにあることなんだ。
——測れなくても、比べられなくても、“感じられる”なら、それで充分。
私は旅人に微笑みながら、こう言った。
「ようこそ、“光”の村へ」
そして、ページのない手帳に、そっと心で書き記した。
——いまここに、確かに“幸福”がある、と。




