第50話 光のない地図
陽が沈んだ都市に、もうかつての明るさはなかった。 だがその静けさの中に、人々はそれぞれの灯火を見つけ始めていた。幸福値が数えられなくなった世界で、数値の代わりに心で歩みを進める彼らは、手探りで“幸福”の輪郭を描いていく。
ミーナは、かつて塔があった広場の跡地に立っていた。そこには新たな建物が建設される予定だったが、今はまだ、広く空が開けたままだ。
「何もない場所って、案外落ち着くね」
ミーナがそう呟くと、隣に立っていたフェリクスがうなずいた。
「余白ってやつさ。記録じゃ補えない、空白の余地。人間ってのは、本来それを必要としてる」
「私ね……ずっと“役割”が欲しかった。聖女って呼ばれたときも、“幸福の番人”になったときも。何かに必要とされているって、証明が欲しかったんだと思う」
「今は違うのか?」
「今は、“私が私であること”を、大切にしてみたい。数字じゃなくて、評価じゃなくて……ただ、目の前にいる誰かの顔を見て、あ、この人と生きててよかったって思えるような……そんな日々を、ね」
フェリクスは苦笑しながら、ミーナの頭をくしゃりと撫でた。
「立派すぎて笑っちまうな。でも、お前がそう思えるようになったなら、世界も少しは前よりマシになってるってことだ」
街では、少しずつ新しい営みが芽吹いていた。 ルカは小さな鍛冶屋を始め、ジャレッドは魔導書の再編集に取り組んでいた。アリシアは花屋を再開し、エルフィナは孤児たちの読み書きの教室を開いた。
そう、エルフィナ。
ミーナにとって、もう一人の“わたし”といっていい存在だった。 記録の演算に囚われ、人工的な幸福値に管理されながらも、自らの手で“幸福の意味”を探し続けた少女。彼女が最後に選んだのは、“もう演算しないこと”だった。
「エルフィナ、いまどこかで風を感じてるかな」
ミーナは空を見上げる。 淡く揺れる雲の間に、どこか懐かしい気配があった。
そのとき、不意にカフェの扉が開いた。
「いらっしゃいま——」
ミーナの言葉を遮るように、扉の前に立っていた青年が言った。
「……ミーナ、俺……ようやく、見つけた」
立っていたのは——リオンだった。 かつて彼女の前から姿を消し、“幸福”の理想に背を向けた青年。
「リオン……」
「君の言葉を、ずっと心のどこかで思い出してた。記録から逃げて、答えを失って、それでも……」
リオンは歩み寄り、彼女の手をそっと取った。
「今ならわかる。“幸福”は、誰かに与えられるものじゃなくて、自分で誰かと作っていくものなんだって」
ミーナは、小さく微笑んだ。
「おかえり、リオン」
言葉は、それ以上いらなかった。
広場の真ん中で、ふたりは互いの掌を確かめるように、ただ見つめ合った。 そしてその上空では、かつて記録塔だった場所に新たに建てられた風見の塔が、静かに回っていた。
“風が幸福を運ぶ”——それは、もう誰かに演算されるものではない。 それぞれの心が選んだ風向きが、ただここに吹いているだけだった。
黎明は過ぎ去った。だが光は、まだ続いていた。
幸福の物語は、あと一歩で結末を迎える。 だがそれは終わりではなく、始まりのひとつなのだ。




